下河辺庄赤岩と新方郷

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 下総国下河辺庄は現茨城県猿島郡から千葉県南葛飾郡の北部地域、埼玉県北葛飾郡の大半、それに古くは下総国に属した新方領を含む広大な領域で平安末期から鎌倉初頭にかけては鳥羽天皇の第三皇女八条院の荘園であった。この荘園は源頼朝の御家人下河辺氏が庄司を勤めていたが、執権北条氏の代、その大半は金沢氏の領分に移された。

 金沢氏は執権北条義時の次子で武蔵国六浦荘(現神奈川県横浜市)を領したが、その子孫が居住地六浦荘金沢の地名をとって金沢氏を称した。下河辺庄における金沢氏の所領は、前林(現茨城県猿島郡総和町前林)、河妻(現同郡五霞村河妻)、平野(現北葛飾郡幸手町)のほか、内河(現吉川町)などを含む赤岩郷(現松伏町)一七か村、それに築地郷(現松伏町築比地)、新方郷(越谷市)などの六郷が確認できる。

 このうち新方郷は、現春日部市粕壁から西に曲流した古隅田川を境に、古利根川と元荒川にはさまれた地域を指した(現春日部市・岩槻市・越谷市の一部)。この新方郷の地名が初めて見えるのは、金沢称名寺文書嘉元三年(一三〇五)の「金沢瀬戸橋造営棟別銭(家別徴収銭)注文案」である。次いで嘉暦元年(一三二六)の「下総国新方検見帳」がみられる。このなかに「十丁めん」と「おま」の地名が載せられているが、この「おま」は現越谷市恩間の地域である。この検見帳によると、当時十丁めんと恩間の合計田地は一八町七反三歩、この年貢高は三七石七斗一升であったが、この年はおそらく水害によるものであろう八町一反一五歩の地が損田として除かれている。またこの年貢のほか雑公事(付加税)として糠(ぬか)・藁(わら)・むしろを納めることになっていた。

 ちなみに恩間の旧家渡辺家は嵯峨源氏源融の後裔で、渡辺左介直光のとき恩間の地に土着したと伝えるが、前記の嘉暦元年の下総国新方検見帳の奥書に、「へい太郎」と「ちゃくわう」の名それに花押が記されている。付会するとこの「ちゃくわう」は直光と読めないことはない。もしかすると渡辺直光は当時金沢氏の被官であったのかも知れない。なお渡辺家屋敷構内には文保元年(一三一七)銘の板碑が保存されているが、家伝によるとこの板碑は渡辺氏の先祖が建立したものと伝える。

 いずれにせよその後正慶元年(一三三二)二月、それまで金沢氏領分のうち下河辺庄赤岩郷と新方郷は金沢貞将によって称名寺に寄進され、北条氏滅亡後も南北朝期にわたって称名寺領に置かれていた。

 その後享徳三年(一四五四)関東公方足利成氏が鎌倉を追われ古河(古河公方)に移ってからは、古河公方足利氏の家宰篠田氏が関宿城を領し、下河辺庄のうち現松伏町や吉川町あたりまでの地を支配していたようである。すなわち『新編武蔵風土記稿』によると川藤村(現吉川町)薬師堂の鐘名には永正六年(一五〇九)関宿城主簗田胤正この地を領し、修験正清寺を再建した旨が刻まれていたという。また同じく関宿城主簗田持助は元亀二年(一五七一)三月吉川宿(現吉川町)の土豪戸張左近将監にあて「近年抱え置いた田地屋敷」を安堵する旨の判物、そのほか天正十八年(一五九〇)まで戸張将監や戸張山城守あてに五通の書状(現県立文書館寄託)を発している。

 このほか天正十六年二月、簗田助縄が赤岩(現松伏町)新宿の大泉坊に「赤岩新宿不入之事」として、市の日には兵糧米六升を差出すことなどを定めた判物をはじめ五通の書状を発している。これによると当時赤岩には市場が立ち町場としてにぎわっていたようである。ちなみに関宿城主簗田氏は上杉謙信の助力のもとで北条氏に対抗していたが、天正二年(一五七四)北条氏照などに攻められて北条氏に降伏した。しかし猿島郡水海をはじめ現松伏や吉川の地は従来どおり簗田氏の支配にまかせられていたのは、戸張家文書や大泉坊文書からも確認される。

 なお、大泉坊は江戸時代のはじめ川藤村榎戸(現吉川町)の地に移ったが大泉坊を称した渡辺家には、今でもこの簗田氏の書状五通が保存されている。

現在の松伏町赤岩