岩槻太田氏と北条氏繁

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 永禄七年(一五六四)一月、岩槻城主太田資正は房総の大名里見義弘と連合し、下総国葛飾郡国府台(現千葉県市川市)で小田原城主北条氏康軍に雌雄を決する戦いをいどんだ。だがこの戦いは北条軍の勝利におわり、太田資正は岩槻城に逃げ帰った。ところが資正は同年七月、北条氏と内応した資正の長子太田氏資のために岩槻城を逐われ、次子梶原源太政景とともに宇都宮国綱のもとに身をよせたが、のち常陸の佐竹義重のもとに客将として移り住んだ。

 この氏資の裏切りは、資正が次子の政景を家督にすえようとはかったのに対する反抗で、資正が房州里見氏のもとへ軍事密議に出張中、家臣とはかって資正を追放、政景を幽閉したと伝える。かくて父と弟を岩槻から追放して岩槻城主になった氏資は、北条氏政の妹を内室に迎え小少将という女子をもうけ北条方の与力として領地の支配にあたった。

 しかしそれから間もない永禄十年(一五六七)八月、氏資は里見勢に攻められた三船台(現千葉県君津市)の救援を命ぜられ、急拠三船台に向かったが主従ともども討死した。このため北条氏政は氏政の次男十郎氏房を氏資の遺子小少将にめとらせ岩槻城に入れたが、当時氏房は年わずかに三歳であった。この氏房が成長し事実上岩槻城主として振舞うのは一五年後の天正十一年(一五八三)ごろであったが、その間北条氏は北条一門の武将を城将として岩槻に配置し、直接この地の支配にあたらせた。この岩槻支配にあたったのが相模国玉縄城主北条氏繁である。氏繁はこの間、永禄十三年(一五七〇)百間(現南埼玉郡宮代町)西行院をはじめ七通ほどの文書を岩槻支配地に発してているが、このなかに元亀三年(一五七二)二月九日付けの大相模不動院(現相模町大聖寺)にあてた氏繁の掟書がある。これは「大相模不動尊は古来より、岩槻の祈願所として諸役免除の特典が与えられてきたが、只今みだりに横合から非分を申しかける者がいると聞く。けしからんことである。今後前々の通り岩槻の武運長久を怠りなく勤めれば諸役免除を保証する。また横合から非分を申しかける者は糺明(きうめい)に及ぶであろう」という要旨によるものである。

 また百間西光院に宛てた氏繁の文書は、「百間の寺家中や当番衆が狼藉に及んでいる由である。けしからんことである。自今以後は横合申しかける者はその名前をうけたまわり、小田原へ申し出るようにせよ。きっと厳罰に処するであろう」という趣旨である。これらの文書から当時岩槻領分は支配的に不安定な状況に置かれていたとみられる。

 ちなみに、太田道灌以来永年にわたる岩槻太田氏の強固な支配のもとに、太田氏と在地土豪層や有力寺社との結びつきはことに強かったが、永禄十年太田氏資の戦死により、常陸の太田資正父子を除いては太田氏の直系は絶える運命にあった。こうしたとき強引に氏資の娘小少将の婿と称し、三歳の北条氏房を岩槻城に入れ、北条氏による直接支配を強行しようとした北条氏に対し、在地土豪層や有力寺社は抵抗を感じたに違いない。しかも古利根川を境に、その東方は当時北条氏に敵対する古河公方の家宰関宿城主簗田(やなだ)氏の支配下に置かれていた関係から、簗田氏の被官吉川宿戸張氏などを通じ、さまざまな面から越谷方面にも働きかけがあったとみてよいであろう。

 このため氏繁は反抗を示す有力寺社には岩槻に忠誠をつくすよう説得するとともに、寺社や土豪層に与えられていた特典を改めて安堵するなどその懐柔にもつとめたが、さらに北条氏房の姓を太田と改め、旧太田勢力の岩槻忠誠を誓わせたのである。

 こうした意味から、大相模不動院にあてた北条氏繁の書状は、越谷地域の当時の情況を知るうえで貴重な書状といえる。なお大相模の大聖寺には、この氏繁の掟書のほか天正十四年(一五八六)の不動院にあてた太田氏房の禁制写し、それに北条氏繁室(妻)の寄進と伝える珊瑚の数珠などが、今なお大切に保存されている。

大相模不動院にあてた北条氏繁の定書