六ヶ村栄光山由緒著聞書

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 残念ながら越谷には、板碑などの遺物や寺伝などのほか中世の史跡を語るものはわずかしか残されてない。このなかにあって浄土宗大松清浄院に、嘉永四年(一八五一)大杉村の川上宗甫という人の写本になる「六ヶ村栄広山由緒著聞書」という伝記本が残されている。真偽のほどは確かめられないが、興味ある記述であるのでその概略を示そう。

 応永年間(一三九四~一四二八)下総国新方庄の地頭に向畑城を本拠としていた新方玄蕃允頼基という武将がいたが、頼基は大松清浄院の堂塔を造営した清浄院の大〓〈檀の、右下部が且〉那(だんな)でもあったという。ちなみに清浄院の開山僧は「清浄院開山并由緒」によると、嘉慶元年(一三八七)の寂年を伝える賢真上人となっているが、話は永享十二年(一四三九)の結城合戦からはじまる。これは永享十一年将軍足利義教に叛いた関東管領足利成氏が、上杉憲実に攻められて自殺、その子春王、安王は結城にのがれた。翌十二年三月春王らは結城氏朝の援けをうけて挙兵したが嘉吉元年(一四四一)四月、幕府軍に攻められて氏朝は戦死、春王、安王は捕えられ、京都に護送される途中美濃で殺害されたという一件である。

 この結城合戦のとき結城方について戦った野木秀俊は討死をとげたが、秀俊の妻子は難をのがれ乳母とともに実家の大川戸(松伏町大川戸)左衛門太郎の館に身を寄せた。しかし結城の残党狩りが厳しく、幕府軍が大川戸を攻めるとの噂を聞いた秀俊の妻と子は、父に難が及ぶのをおそれ、乳母とともに近くの湖に身を投じ、三頭一尾の大蛇となって野木家を滅ぼした将軍義教をのろった。

 こうして三頭一尾の大蛇の怨念は赤松満祐にのり移り赤松をして将軍義教を殺害させて、その望みを果たしたが、その身は「王者尊貴」を殺害した罪で成仏できず、日夜湖辺をさまよい続けた。こうしたなかで文安四年(一四四七)の春、桜の花見に湖畔を訪れた清浄院の方丈賢真上人は、もとの女の姿にかえって現われた大蛇の悲痛な訴えをきき、大蛇のために七日間の念仏修業を執行した。この満願日の朝一山鳴動し、一朝にして湖は岡に変じた。驚いた人びとはこの岡を蛇塚とも開山塚とも称したという。なお賢真上人の寂年は宝徳元年(一四四九)とも伝えるが詳らかでない。以上が前編の話である。

 後編は文亀四年(一五〇四)からはじまる。当時は古河公方足利氏と、関東管領上杉氏との確執が続き、関東も戦国時代を迎えるところであった。この年一月八条(八潮市)の領主八条兵衛尉は、兵をひきいて新方の地に侵入した。これを知った向畑城主新方頼希は、八条軍を小林の郷に迎え討ったが、頼希は討死して新方軍は敗北した。八条兵衛尉は新方庄を占領し、向畑城に別府三郎左衛門を置いた。当時の清浄院住僧高賢は新方頼希の兄であったため、八城軍に攻められたが、高賢は難をのがれて渋江寺(岩槻市)に落ちのびた。

 永正十七年(一五二〇)渋江寺にあった高賢は新方の旧臣にすすめられ、軍備を整えて新方の八条軍を攻めて向畑城を奪回した。これを聞いた八条氏は大いに怒り、永正十八年八月一日親族をひきい別府に陣をしいた。高賢も一山の衆徒や新方譜代の武士とともに大吉に布陣したが、軍を進めて荒川を渡り、別府の地で激戦を展開させた。このときの戦いは新方軍の勝利に終わったが、八条軍の死者は一五〇余人、新方軍は三二四人に及んだという。以来新方庄は新方氏の領分に復したが、このうち清浄院の寺領は六か村にわたっていたので、六か村栄光山と称された。その後北条氏が関東を制圧したが、北条氏はこの寺領をそのまま安堵した。さらに天正十八年(一五九〇)徳川家康が関東に入国したが、家康はとくに清浄院に対しては古来からの由緒により六か村のうちから高十二石の寺領を与えた、とある。

 以上が「著聞書」の概要である。これらの事歴を確認するものはないものの、新方領は中世の伝説の宝庫といえよう。

大松清浄院の開山塚