岩槻太田氏と越谷

11~13/236ページ

原本の該当ページを見る

 岩槻城は扇谷上杉家の家宰太田道灌が、当時敵対関係にあった古河公方足利成氏の武蔵侵攻に備え、江戸城や川越城とともに長禄元年(一四五七)に築いた城といわれる。道灌は主家のため堅城を築いて敵に備えるとともに、足利成氏軍や、上杉家に叛(そむ)いた長尾景春討伐のため各地に転戦、そのつど連勝してその武名を天下にとどろかせていた。この間、現東松山市箭弓(やきゆう)稲荷の縁起によると、寛正二年(一四六一)九月「成氏と上杉方と越ヶ谷野に戦ひ成氏敗軍」とあり、越ヶ谷が戦場になったときもあったとみられるが、確かなことは不明である。

 上杉家は早くから関東管領山内家と扇谷家の両家に分かれていたが、太田道灌の活躍で扇谷家の権威が高まるにつれ、これを恐れた山内の上杉顕定は、扇谷の上杉定正に道灌の謀乱を讒言(ざんげん)した。これを信じた上杉定正は文明十八年(一四八六)相州糟谷で道灌を謀殺した。このため江戸に居城した道灌の長子資康と、岩槻在城の次子資家は主家の扇谷家を見かぎり山内家に走った。こうして資家らは主家の山内上杉氏を扶(たす)け当時小田原を拠点として台頭してきた北条氏とはげしく対抗した。

 ことに岩槻城主を継いだ資家の次男資正は、各地で善戦を展開させて北条軍を悩ませ続けたが、永禄七年(一五六四)下総国国府台で北条軍と交戦後、その敗戦の善後策を講じるため安房の里見氏のもとに出張中、北条氏と内通したその子氏資のため岩槻城を追放された。これは資正が長子の氏資をさしおき、腹違いの次男政景を嫡子に据(す)えようとしたための反抗であったといわれる。こうして岩槻を追われた資正は、諸国を放浪ののち常陸の佐竹氏のもとに寄寓し、片野城を与えられたが、再び岩槻には戻れなかた。

 一方北条氏の麾下(きか)に入った氏資は、改めて家臣の所領安堵や知行の宛行(あてがい)、ならびに領内寺社の諸役免許などの文書を発し、岩槻城主としての地位を固めていった。こうしたなかで永禄十年(一五六七)七月、太田氏資は所用で上洛(じようらく)する岩槻平林寺(平林寺は寛文三年(一六六二)現新座市野火止に移されている)の住僧に対し、その留守中平林寺の領地である馬籠(岩槻市)ならびに四条村(越谷市東町)の地を横領(おうりよう)されないよう私が守ろう、との旨の文書を出している。この文書により当時越谷地域は岩槻太田の勢力下におかれ、四条の地が平林寺の領地にあてられていたことが知れる。

 平林寺にこのような文書を発していた氏資は、それから間もない同年八月、北条氏の命により、里見氏に攻められていた上総国三船台に急拠出陣して里見軍と戦ったが、戦い利あらず討死して果てた。この氏資の戦死は、北条氏の謀略によるものだともいわれるが、主を失った岩槻城は以来北条氏の直接支配のもとに置かれた。

 北条氏の支配に置かれた岩槻城には、はじめ北条氏繁が城番として在城したが、元亀三年(一五七二)二月、氏繁は大相模不動院(越谷市相模町)に対し「大相模不動院は古来から岩槻の祈願所として諸役を免除してきたが、ただ今みだりに横合いから非分を申しかける者がいる。たいへんけしからんことである。前々の通り岩槻の武運長久のため懈怠なく勤めれば、諸役の免許を保障し、横合いから申しかける者の糺明を遂げるであろう」との旨の掟書を発していた。

 おそらく当時越谷の有力土豪層のなかには、岩槻が太田氏にかわり、北条氏のものになったことに不満をもっていた者が、少なくなかったに違いない。

四条の村とある太田氏資の文書