小田原北条氏と中村右馬介(うまのすけ)

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 前節で岩槻城主太田氏資が永禄十年(一五六七)の上総国三舟台の戦いで討死し、主を失った岩槻城は北条氏の直接支配に組入れられ、北条氏繁が岩槻城番として暫く岩槻に在城したまでを述べた。その後北条氏繁は、天正二年(一五七四)、上杉謙信の盟友関宿城の簗田攻めに参陣し岩槻を離れたが、その跡の岩槻城は小田原北条氏の直接統治下に置かれた。ちなみに北条氏による天正二年の関宿攻略戦には、関東出馬の上杉謙信が上杉軍の最後の拠点羽生城を破却して越後に撤退、謙信の救援を待ち続けた簗田氏はついに北条軍に降伏した。簗田氏降伏後、北条氏繁は常陸の佐竹氏や太田資正らの侵攻に備え、飯沼城主として飯沼に在城した。

 この間、小田原北条氏の直接支配のもとに置かれた越谷地域では、天正七年(一五七九)六月、北条氏の給人(家臣)中村右馬介が、同じく北条氏の給人関根織部の百姓主計助に、陣夫の件で、北条氏に訴えられるという事件が発生していた。すなわち主計助は右馬介がなんの根拠もなく陣夫を召し使っているのは不当である。との訴えによるものである。おそらくこの陣夫は主計助の縁者であったのかもしれない。これに対し北条氏は両人を小田原に召喚し対決させて事の理非を糺(ただ)したが、結局小田原の評定衆は、討死したもと岩槻城主の氏資から主計助は右馬介の陣夫であるとの証文は出されていないが、氏資討死以来今日まで召し使っていることなので、今後ともこの陣夫は右馬介のものであるとの裁許(判決)を申渡していた。つまり中村主計助の敗訴である。

 この北条氏判決は、中村右馬介が北条氏から知行を与えられている被官であるのに対し、訴えた主計助は、同じく北条氏の被官関根織部の私領の百姓という身分上の差異から、被官の利益を擁護するためにとられた判決であったとみられる。おそらくこの裁許状からみる限りでは、中村右馬介は、永禄十年の三舟台合戦に、氏資の許可を得て陣夫を徴用し氏資にしたがって従軍したが、氏資が討死して帰陣したあともこの陣夫を家人として召し使っていたとも考えられる。

 ところで、この中村右馬介とは何処の地の人であろうか。ちなみに麦塚村(越谷市川柳町)の旧家中村家に「中村家譜」が残されている。これによると麦塚の中村氏はもと多切氏を称し、結城家に仕えていたが、嘉吉元年(一四四一)の結城合戦で結城落城後上総国中村郷に居住、姓を中村と改めた。その後弥兵衛尉正武の代小田原北条氏に仕え、さらに右馬介朝武の代麦塚に移り住んだという。右馬介朝武は天正十七年(一五八九)十月の没年で葬地は麦塚村無量山観音寺智泉院となっている。

 また前記の小田原評定衆による裁許状は、麦塚村吉兵衛所有とあり、北条氏の被官中村右馬介は麦塚中村家譜による中村右馬介朝武にほぼ間違いはない。なお中村氏は天正十八年北条氏滅亡後農民となり、代々にわたり麦塚村の世襲名主を勤めた。中世史料の少ない越谷にとっては、中世の越谷を知るうえで一つの手掛りを与えてくれる事歴といえる。

 さて話をもとに戻そう。小田原北条氏の直接支配をうけていた岩槻城は、北条氏政の次男十郎氏房と、もと岩槻城主太田氏資のわすれがたみ小少将との婚儀が整い、氏房はその姓を太田と改めて岩槻城に入った。こうして太田氏房が岩槻城主として岩槻領国の支配にあたることになり、氏房の判物で多くの文書が出されていたが、このうち天正十四年(一五八六)一月には、押買狼藉などを禁じた制札を大相模不動院に発していた。

麦塚の中村家長屋門