岩槻落城と斎藤家伝説

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 前節では北条氏政の次男北条十郎氏房が、もと岩槻城主太田氏資の娘と結婚し、姓を太田と改め岩槻城主を継いだまでのことを述べた。当時北条氏は関東の地のほとんどを制圧、上野国沼田を拠点として越後の攻略をねらっていた。ところがそのころ京都を中心に諸国の大名を臣従させた豊臣秀吉は、北条氏に対しても臣従の礼をとるよう上洛を促がしたが、北条氏は勢威を誇示してこれを拒否した。

 これを科めた秀吉は、天正十八年(一五九〇)徳川家康を先鋒隊として小田原に軍を進め、関東攻略戦の幕を切って落とした。このとき岩槻城主太田氏房は岩槻城に数百人の留守部隊を残し、家臣三〇〇〇人とともに小田原に籠城したが、岩槻城は秀吉の臣浅野長政、木村常陸介、家康の臣本多忠勝・鳥居元忠らの軍勢一万三〇〇〇人に包囲され、はげしく攻めたてられた。

 留守をあずかる妹尾下総守や伊達与兵衛は数百人の手勢をもって防戦につとめたが、衆寡敵せず同年五月二十日落城、太田家の重臣伊達与兵衛は城中将兵の助命を嘆願し、切腹して果てた。豊臣軍はこの助命嘆願を許し、城中の将士を離散させ、太田氏房の妻子をはじめ主な家臣の婦女子を小田原城に送りとどけた。やがて関東の北条支城はことごとく落城、小田原城も七月に入り北条氏が降伏を申し出て落城した。北条氏政はじめ主な武将は切腹を命ぜられたが、小田原城主北条氏直と太田氏房は助命され、高野山に入山した。ここに長い期間関東を制覇していた北条氏は滅亡にいたったわけである。

 ところで岩槻周辺の地には、もと岩槻太田氏の家臣であったと伝える旧家が数多い。西新井村堀内(越谷市)の旧家斎藤氏もその一人である。斎藤家に伝えられた「来由記」によると、斎藤氏の祖は若狭守光郷と称し、岩槻太田氏に仕えて西新井の地など三〇〇〇石の地を領知していたが、豊臣軍の岩槻城攻めに防戦し討死をとげた。この岩槻城攻防戦にあたり太田下野守の内室は、五歳になるその子岩月丸を抱いて城からのがれ、野鳥の地蔵尊に詣でて北条方の勝利を祈願したが、このとき地蔵の両眼から涙が溢れでていたのをみて敗戦を知った。覚悟をきめた内室は岩月丸を斎藤光郷の子光高にあずけ、自らは地蔵尊前の浄庵沼に投身して果てたが、この遺骸は、西新井の斎藤家屋敷に流れ着いた。

 斎藤光高はこの遺骸を手厚く葬り、塚を築いてそのうえに椿の木を植えた。それで人びとはこの塚を椿割塚と呼んだという。ちなみにもと斎藤家屋敷内の一隅に、後世の建立とみられる墓石が建てられている。これには「天正十八年六月、太田下野守内室」と刻まれている。一方岩槻丸を養育した光高は徳川家康に仕えて別家を創出、岩月丸が光郷の末娘を娶って斎藤家第二世を継ぎ、加左衛門尉氏貞と称した。第三世は、実は越ヶ谷郷の郷士会田出羽守の子息で、斎藤家の養子となり治左衛門尉宗円と称した。このため宗円ならびにその後の数代は斎藤と会田の両姓を用いていたという。

 この斎藤家由来記のすべては、必ずしも確かなものとはいえないものの、岩槻城にまつわる伝説の一つとして興味深いものといえる。このほか岩槻落城にかかわる伝えでは、関東代官伊奈半十郎忠治の家臣で出羽地区開発の功労者、神明下村(越谷市)の会田七左衛門政重が、もと太田氏房ゆかりの子で、岩槻落城とともに越ヶ谷郷会田出羽に拾われ、会田氏の養子として養育されたという話が伝えられている。

岩槻城跡