瓦曾根村秋山家

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 越谷地域の旧家には、その先祖が戦国時代の落武者であるとの家譜を伝える家が数多い。たとえば戦国期甲斐国から落ちのび、武州見沼郷に潜居したが、のち袋山を開発して当所に定住したと伝える細沼家、常陸国石塚村の武士で代々佐竹家に仕えていたが、天正年間(一五七三~九二)西方村の藤塚に土着したと伝える石塚家、駿河国中村郷の武士で慶長五年(一六〇〇)の関ケ原戦後瓦曾根村に土着したと伝える中村家(彦左衛門家)。

 天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉にしたがって奥州征伐に向かう途中病気に倒れ、瓦曾根村で養生していたが、慶長二年農民身分となって蒲生村に定住したと伝える中野家、下総国中村郷(千葉県)の住民で、のち岩槻太田氏に仕え麦塚の地に定住したと伝える中村家、同じく岩槻太田氏に仕え、天正十八年岩槻落城後西新井に土着したと伝える斎藤家、もと豊臣氏の家臣で元和元年(一六一五)大坂落城後増林に落ちのびたと伝える榎本家などがある。

 このほか瓦曾根の秋山家の祖は甲斐の戦国大名武田信玄の家臣で、武田家一〇武将の一人秋山伯耆守信藤であることを伝える。武田信玄は天下平定をねらう有力大名の一人であったが、天正元年(一五七三)京都に軍を進める途中病没、信玄の子勝頼がその跡を継いで駿河・遠江をはじめ武蔵・上野の地を攻略していたが、天正十年織田信長と徳川家康連合軍によって攻められ、甲斐の天目山で自殺した。

 この間秋山信藤は勝頼のもとで数々の戦功をあらわしていたが、武田家滅亡に際し、武田勝頼の一子千徳丸をともなって武州に落ちのび、当時槐戸新田と称された七左衛門村に潜居した。のち瓦曾根村に移って土着したが、千徳丸は間もなく病歿、これを悲しんだ信藤の子長慶は剃髪して僧となり、瓦曾根村真言宗照蓮院の住職となって千徳丸ならびに戦歿した一族の菩提を葬ったという。千徳丸の没年は不明であるが、照蓮院の秋山家の墓所には、寛永十四年(一六三七)御湯殿千徳丸と刻まれた五輪塔の供養墓石がある。現在、越谷市の文化財に指定され、その保存措置がとられている。

 さて長慶の父信藤は、その長男つまり長慶の兄秋山虎康の子昌秀が徳川家康に仕え、下総国葛飾郡小金領で高一〇〇〇石の知行(のち四七〇〇石)を与えられたとき、昌秀の江戸屋敷に引きとられた。信藤は九三歳の長命を保って没している。この昌秀の妹が家康の愛妾「おつま」の方である。おつまの方は、天正十年武田家滅亡のとき、天目山から救い出され家康の側室に抱えられた。時に一五歳、昌秀の御家人への登用もこうした関係にあったからであろう。

 またおつまの方は万千代君という家康の五男にあたる男子を生んだが、万千代はのち武田の名を継いで武田信吉と称し、天正十八年下総国小金領三万石の領主に封ぜられた。次いで文禄元年(一五九二)佐倉領四万石に移封、続いて慶長七年(一六〇二)十一月佐竹氏山形移封後の常陸国水戸一五万石に封ぜられたが、翌慶長八年二一歳で病没、跡継ぎがなかったため武田松平家はここに滅亡した。

 一方おつまの方はこの先天正十九年(一五九一)十月、二四歳で病没、小金の日蓮宗本土寺に葬られた。その後貞享元年(一六八四)水戸城主徳川光圀がおつまの方をしのんで本土寺を訪れ、おつまの方の墓石を再建した。この墓石は現在松戸市の史跡として大切に保存されている。戦国期に生きた女の悲しい宿命がこの墓石に秘められているといえよう。いずれにせよ瓦曾根村の秋山家の祖秋山長慶はおつまの方と叔父姪の間柄にあったわけである。

 この瓦曾根に土着した秋山長慶の子孫は農民身分となったが、この秋山家からは山谷の秋山家、瓦曾根の秋山家、大境の秋山家、流の秋山家などが、現在に続いている。

おつまの方の墓石(小金本土寺)