小池坊尊慶と謙順権僧正

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 真言宗豊山派の総本山大和国(現奈良県)初瀬の豊山長谷寺第五世化主(住職)小池坊尊慶は「豊山伝通記」によると諱(いみな)を尊慶、あざなを頼心と称し俗姓は会田氏、天正三年(一五七五)武州越ヶ谷に生まれる、とある。その出自は越ヶ谷の会田氏とあるだけでつまびらかでないがおそらく越ヶ谷郷の豪族会田出羽家の一族であることには違いなかろう。なお小池坊とは慶長十八年(一六一三)に建立された長谷寺の僧坊の名である。

 尊慶は天正十六年一三歳のとき、末田村金剛院の尊阿上人に師事し、剃髪して仏道への修業に励んだ。のち京都東山智積院にのぼり、日誉僧正のもとで教義を学んだが、さらに元和二年(一六一六)には大和国の諸寺をたずね仏学をきわめた。そして寛永十年(一六三三)には京都大覚寺の住職尊性法親王に謁見し両部の灌頂をうけることを許されている。

 同年尊慶は朱印寺領高二〇〇石を領した越後高田毘沙門堂総持寺の住職を命ぜられたが、同十二年再び故郷に戻り朱印寺領高一〇石の末田村金剛院の第七世住職を継いだ。このとき尊慶は寺社奉行松平出雲守に高田毘沙門堂の住職を兼帯することを願いあげ、これが許されている。こうして両寺の住職を兼帯した尊慶は末田村金剛院に金剛檀林(学問所)の席を設けたが、高名の尊慶を慕い学徒が雲のごとく集まって門前は常に市をなすありさまであったといわれる。

 寛永十五年尊慶は金剛院の住職を弟子の宥重に譲り、再び智積院に入山し元寿僧正についてさらに仏学の研讃につとめた。その後寛永十八年豊山長谷寺の化主秀算僧正の招きをうけて長谷寺に入ったが、このとき幕府の命により秀算僧正の跡をうけて長谷寺第五世の化主に任ぜられた。同時に将軍徳川家光の要請により豊山妙音院に住して大衆を指南(教え導くこと)したが、教導をうけた僧人や俗人は一ように尊慶の教導に感化されたといわれる。

 翌寛永十九年尊慶は江戸城に将軍家光をたずね、豊前長谷寺の本堂再建を願い出たが許され、翌二十年黄金二万両が下賜された。この家光から与えられた資金をもとに同年本堂の再建に着手したが、正保二年(一六四五)五月、工事はみごとに竣工し、同年盛大な落慶(寺院工事の落成)供養が行われた。念願を達した尊慶は、同年九月江戸城をおとずれ、将軍家光に長谷寺再建の竣功を報告するとともに、その協力を奉謝した。このとき尊慶は真言宗の最高の位である僧正位に叙せられたが、承応元年(一六五二)十二月十九日病いのため長谷寺で遷化(死去)した。ときに年七三歳であった。

 以上が伝通記における尊慶の履歴の要旨である。なお尊慶は会田七左衛門政重の開基による七左衛門村(現七左町)観照院、ならびに葛飾郡幸手領小淵村(現春日部市)観音院の中興の開山僧になっている。また慶長十一年(一六〇六)から元和六年(一六二〇)まで四丁野迎摂院第五世の住職も兼帯していた。

 このほか越谷からは、真言宗豊山派の本山京都東山の智積院第二八世となった謙順権僧正が出ている。「謙順権僧正伝」によると、謙順はあざなを豊春といい、元文四年(一七三九)武州埼玉郡蒲生村の中野家に生まれた。宝暦元年(一七五一)一二歳のとき江戸愛宕円福寺の覚遠和尚のもとで剃髪し、宝暦五年から智積院に入山して修業したが、宝暦九年にはその学才が認められ六波羅密寺の主事に選ばれている。

 安永八年(一七七九)在山二五年にして智積院の南寮を賜ったが、享和三年(一八〇三)には愛宕円福寺の住職に転じた。次いで文化元年(一八〇四)智積院第二八世になった。時に六五歳の冬であった。文化二年権僧正に叔せられたが、文化七年退隠し、栂尾の高山寺に住居した。なお没年は不明。

尊慶の中興開山といわれる七左町観照院の山門