観智国師書状と安国寺

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 浄土宗大泊安国寺は江戸時代、岩槻渋江浄安寺の末寺で、はじめは末寺頭を勤める筆頭寺であった。この安国寺の本寺、渋江浄安寺は永正二十五年(一五〇五)の中興開山を伝える由緒ある古刹(こさつ)である。当時浄土宗の支配寺は大本山京都知恩院と同格の扱いをうけ、幕府との接衝にあたった芝の増上寺で、その住職は徳川家康の信任ことに厚かった増上寺第十二世普光観智国師であった。

 観智国師は、浄土宗関東十八檀林(学問所)の制を設け、本末制度の整備確立をはかるなど、幕府の宗教統制に大きな役割を果たした。ちなみに平方林西寺の住職を勤め、のちに新田大光院の開山僧となった呑龍上人は、観智国師の高弟の一人である。なお国師名は国家の師たる高僧に朝廷からおくられる称号で、その数はきわめて少ない。この国師号をうけた観智国師は源誉上人といい、武蔵国埼玉郡の人で天文十三年(一五四四)の生まれ、元和六年(一六二一)七八歳の寂年であるが、現在確認される観智国師直筆の書状は数少ないといわれる。

 こうしたなかで、観智国師直筆の書状が大泊安国寺に残されている。元和三年(一六一七)安国寺にあてた書状で、紙質は大分痛んでおり前文は読みとりがたいが、『祠曹雑識』所収の同書状写によってみると、これには「一書指遣申候、前々末寺の筋目を以浄安寺へ出仕の儀神妙に候、向後諸末寺へ其断に及ぶべくの間、取持尤候、万早々カシク、元和三年巳年十月十日 普光観智国師源誉(花押) 安国寺」と記されていることが知れる。

 つまり安国寺は浄安寺の末寺の筋目により、前々から浄安寺に出仕しているとのことで殊勝なことである。今後諸末寺に対し浄安寺に出仕するよう伝えておくので、その仲介の取り持ちを頼みたい、といったものである。当時安国寺は浄安寺の末寺頭を勤めていたことから、観智国師がとくに安国寺あてに書状を出したとみられる。本末制度が確立される以前の書状だけに、当時を考証するうえで貴重な文書といえる。

 その後浄土宗では貞享四年(一六八七)に本末寺院の組み替えが行われた。すなわち鎌倉光明寺など五か寺の紫衣寺を除く関東十三檀林の五里から六里四方の浄土宗寺院は、智恩院や増上寺の直末寺であっても、すべて檀林寺の支配寺に組み入れるというものである。このとき智恩院の直末寺浄安寺は十三檀林の一寺岩槻浄国寺の支配寺に組み込まれた。以来浄安寺の末寺である安国寺も浄安寺とともに浄国寺に出仕することが義務づけられたわけである。

 このほか浄国寺の支配に置かれた主な寺院には見田方村(越谷大成町)の浄音寺、幸手宿の正福寺、谷古田村(川口市)の全棟寺、椿村(庄和町)の倉常寺、草加宿の教存寺などがある。ただしこのとき智恩院の直末寺であった平方村の林西寺、同越ヶ谷の天嶽寺、増上寺の直末寺大松村清浄院、増林村林泉寺の四か寺は、御朱印寺や末寺をかかえた本寺分の由緒によるとして、浄国寺の支配から除かれた。おそらくこの四か寺にはなんらかの理由があったのであろうが、この間の事情は不明である。

 これに対し朱印寺領高六二石、独礼席(単独で将軍に拝謁を許される格式)の由緒を誇る浄安寺が、関東十八檀林の一寺であるとはいえ、朱印寺領高五〇石の浄国寺支配に組み入れられたことに不満を示し、正徳二年(一七一二)にも浄国寺からの支配を除くよう寺社奉行に強いて願いあげていたが、すでに申し後れであるとして訴願は却下されている。このため安国寺は江戸時代を通じ本寺の浄安寺と支配寺浄国寺の二重の支配を受けていたわけである。

大泊安国寺