義演准后日記

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 大相模の真言宗真大山大聖寺は、もと大相模の不動院と称し、良弁(ろうべん)僧正作の不動明王を本尊とした、天平勝宝二年(七五〇)の創建を伝える当地域きっての古刹である。天正十九年(一五九一)十一月徳川家康から古来よりの由緒により、寺領高六〇石を与えられたが、この寺領は越谷周辺の寺院では最大のものであった。

 当時大聖寺の本寺と末寺の関係はつまびらかではないが、慶長二年(一五九七)十月新義真言宗醍醐三宝院流の総本山、山城国醍醐三宝院から法流血脈(けちみやく)を授けられ、三宝院の直末寺に組入れられている。すなわち高僧として名高い醍醐三宝院第三十二世准三后義演(永禄元年生まれ、寛永三年寂)の記した「義演准后日記」慶長二年十月二十六日の条に、直末寺認可の書状が載せられている。これには「武州大相模大聖寺の事、直末寺に召し加え訖(おわんぬ)、いよいよ密教の興隆を専らにすべきもの也」とあり、慶長二年十月二十一日の日付と准三宮(義演)の判が押されている。

 さらに智恵身院の演照在判による同日付の添状が付されているが、これには「武蔵国大相模大聖寺、御直末の事、これを披露せしむ処にすなわち御別儀なく御書付ならせられ、もっとも珍重に候、なお寺院再興あるべくの由三宝院御門跡(義演)御気色の所に候也、仍て件の如し」とある(読み下しは筆者)。こうして大聖寺が直末寺認可の手続きを済ませて帰国するにあたっては、醍醐三宝院から関東真言宗寺院に宛てた次のような遣状がとくに大聖寺に託されていた。

一、真言宗注連祓(しめはらい)、相止べくの段これなくといえども、すでに内大臣(徳川家康)殿御意候由、全阿弥申され候間先後在家の祓堅く停止たるべく、以来の儀は連々御訴訟成さられ、元の如く執行致す様にことわりを仰せられるべき事

一、もし落着せざる以前、彼の祓執行の人これあるに於ては、連判衆をなし全阿弥へ相届け、彼の寺院を改、仏法并に三衣等を剝取るべき事

一、檀那祈念の儀は、例年の巻数札守等をもって先ず執行すべき事、右の趣違背せしむべからざるの旨仰せ下され候也、依て件の如し

とあり、慶長二年十月二十一日の日付けと三宝院雑掌経紹ならびに、智恵身院演照の在判が付されている。

 すなわち真言宗での注連祓い(災厄・汚穢・罪障などを解き除くために行う神事)行事は、徳川家康の意志により以後堅く停止する。以来注連祓いを執行する寺院があればこれを訴え、元のように執行するよう申聞かせるようにせよ、もし結着しないうちなお注連祓いを行う寺院があれば、連名をもって全阿弥へ届出で、かの寺を吟味のうえ印信や僧衣などを取り上げる、というきびしい達しであったようである。神仏混淆(こんこう)を当然としてきた中世来の慣例のうち、真言宗ではこのとき注連祓いの行事が禁止されたようであるが、真言宗寺院でも神社の別当寺の場合はどのような措置がとられていたか、くわしいことは不明である。

 なおこのとき醍醐三宝院に出向した大聖寺の使僧は、大聖寺の由緒書によると大聖寺中興の住僧定伝とあるが、当日記には「大聖寺弟子円心也」と記されている。また足立郡淵江領西新井村惣持寺(通称西新井大師)もこの年十一月二十一日醍醐三宝院の直末寺に組入れられているが、このときの認可状は当日記によると「武蔵国惣持寺の事、直末寺に召し加え訖、いよいよ寺院の興隆に励まれるべきもの也、あなかしこあなかしこ」とある。

 ともかく大相模の大聖寺は、当時仏法の盛んであった京都においても注目された、格式の高い寺院であったことがうかがわれる。

現在の大聖寺