会田出羽家と越ヶ谷御殿

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 越ヶ谷・出羽・荻島の各地区、それに瓦曾根や岩槻市の鈎上を含めた地域は、もと越ヶ谷郷と称されていた。この越ヶ谷郷のうち、荒川(現元荒川)通り四町野筋(現越ヶ谷御殿町地帯)に陣屋を構えていたのが会田出羽氏である。

 「会田家系図」によると、会田氏の祖は信濃国海野郷の領主海野氏の一族で、同国小県郡会田郷に移って以来会田姓に改め、代々小笠原家に仕えていた。その後天文年間(一五三二~五五)小笠原氏が甲斐の武田氏の侵攻で信州を追われるに及び、会田氏の一族も各地に離散した。

 このうち会田郷の領主筋にあたる会田小七郎幸久は武蔵の地に移り、小田原北条氏に仕えた。その長子は会田中務丞信清と称し、北条氏の馬廻り役(旗本)を勤め、下総国葛西庄飯塚や奥戸等の地を領有した。その次子は会田出羽資清と称し、武州越ヶ谷郷に本拠を構え、岩槻城主太田三楽斎資正とも親交が厚かったという。当の資清は天正十七年(一五八九)八月に没したが、その跡を継いだのが会田出羽資久である。資久は当時不毛の沼沢地であった綾瀬川通り、現出羽地区の干拓をはかり、排水溝を造成して出羽地区開発の基いを開いた。この溝堀は出羽が造成したことから出羽堀と称され、江戸時代を通じ出羽地区の用排水路として重要な機能を果たしていた。

 この先天正十八年六月北条早雲以来関東に勢威を誇っていた北条氏は、豊臣秀吉の小田原攻略によって滅亡、北条氏に代って徳川家康が関東に封ぜられた。関東に入国した家康は江戸を本拠地と定めるとともに、鷹狩りにことよせ領国地形の洞察や民情の視察を兼ねて各地を歴訪した。このうち越ヶ谷を訪れたときは、きまって越ヶ谷郷の土豪会田出羽氏の屋敷に立ちより、資久に拝謁を許して御馬験鐘馗の御籏など数々の品を下賜していた。

 ことに家康は会田出羽家の武門の由緒を評価し、その子庄七郎資勝を家康の近習衆にとりたてている。ところでこの資勝に関しては、『台徳院殿御実紀』によると、慶長十年二月、大御所家康が江戸城をたって駿府に帰城の途中、相模国中原御殿に数日逗留して鷹狩りを催していたが、このとき御殿にあった金の茶器類が盗難に遭った。このため、その夜宿直にあたっていた会田庄七郎、その他同僚二人はその責任を問われ、それぞれ大名家にお預けになった。このうち資勝は遠州掛川の本多家に預けられた。その五年後の慶長十五年二月、金の茶具を盗んだ賊が捕えられ、資勝らは大名家から解放されたが、罪を許された資勝は越ヶ谷に帰り、この地域の地方代官を勤めていたようである。

 なおこの資勝は、「会田家系図」によると、葛西の城を領有していた小田原北条氏の家臣会田中務丞の嫡子であったが、中務丞没後、会田家中の内紛から天正十六年難を遁れ、中務丞の弟筋にあたる越谷会田出羽家に預けられたようである。

 それはともかく、兼ねてから立地条件のよい越ヶ谷会田家の屋敷地に目をつけていた家康は、その屋敷構内の一部を提供するよう資久に求め、慶長九年、それまで新方領増林(現越谷市)にあった御茶屋御殿を廃し、新たに当地へ御殿を造成した。これは越ヶ谷御殿と称されたが、その地は現在の越ヶ谷御殿町の区域であり、その構内はおよそ六町歩(約六ヘクタール)、御殿は荒川に面した現葛西用水路の元荒川圦樋の辺りに建てられたと推定されている。

 家康はこの越ヶ谷御殿をことに好み、しばしば越ヶ谷に来訪しては五日から一週間程度の泊り狩りを重ねており、慶長十八年十一月の泊り狩りのときのように、一日に鶴一九羽を捉えてご機嫌であったときもある。また、二代将軍秀忠も、幕府の重臣を引き連れて越ヶ谷御殿に一か月にわたる泊り狩りを重ねており、ときには御殿で茶の湯を催すこともあった。その後慶安二年(一六四九)四月、家光の世子家綱の日光社参には、その往返とも家綱の休泊所に用いられたが、明暦三年(一六五七)一月江戸の大火災に焼失した江戸城のうち、将軍の臨時の居城として越ヶ谷御殿が二の丸に移された。その跡は御林跡を残しすべて畑地に開発されたが、御殿の地名はそのまま今に残されている。

現在の越ヶ谷御殿地