越ヶ谷宿の成立と会田出羽家

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 慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原戦で事実上天下を掌握した徳川家康は、同六年から七年にかけて東海道や中山道などの主要街道を公道に指定するとともに、道中二里か三里ごとに人馬の中継所であり旅人の休泊所でもある宿駅の設置を制度的に定めた。このうち当地域では現元荒川から中川づたい、そして千住に通じる川添いの堤防道が奥州街道に指定された。

 利根川(現古利根川)・荒川(現元荒川)・綾瀬川などの河川をひかえ、水害に悩む低湿地域の不安定な道をあえて奥州への公道と定めたのは、低湿地の交通路を公道にすることによって、水田の開発と村落の振興をはかるねらいがあったのであろう。支配者の財政基盤は、米を中心とした農業からの年貢によって賄われたからである。おそらく家康の御殿が増林からこの街道筋に移されたのも、この公道の指定と無関係ではなかったであろう。かくてこの街道に沿って町割が行われ、宿場が造成された。この新たに設置された宿場名は、越ヶ谷郷の郷名をとって越ヶ谷宿と名づけられた。このとき越ヶ谷宿は行政区分として本町と新町とに区画されたが本町のうち会田出羽家持切りの地区があったため改めて町割が行われ、この地域はとくに中町と名付けられた。

 こうして成立した越ヶ谷宿の三町には、それぞれ名主・問屋といった役人が置かれたが、本町の名主・問屋・本陣の三役兼帯が会田八右衛門、中町の名主・問屋が会田出羽氏の代役、新町の名主・問屋兼市場割元が会田権四郎というように、その宿場の要職はいずれも会田出羽家の一門によって構成されていた。つまり越ヶ谷宿の造成には、会田家の協力によるところが大きかったといえる。かくて慶長十三年(一六〇八)五月、家康越ヶ谷鷹狩りの際、家康御用よくよく勤めたとして、関東代官頭伊奈備前守忠次の差添書判をもって畑一町歩の屋敷地が出羽資久に与えられた。当の資久は元和五年(一六一六)十月に没したが、その跡を継いだ会田七郎右衛門資重の子小左衛門資信は寛永元年(一六ニ四)三代将軍家光付きの小姓に登用されて切米三〇〇俵を給された。その後二〇〇俵の加増をうけ、高五〇〇石の旗本に定着、旗方会田家の祖となった。この家からは代官として活躍した伊右衛門資刑や同資敏などが出ており、幕末までその家系を保っていた。

 一方、越ヶ谷町の会田出羽家は、又六資忠、五郎平資勝と続いたが、元禄八年(一六九五)の武蔵国幕領総検地の際、家康からの拝領による屋敷地一町歩の地が検地の対象となって年貢地とされた。この一町歩の地は実坪三町四反三敷一二歩であった。またこのとき会田出羽家の直系である五郎平資勝の名請地(所持地)は、越ヶ谷町検地帳五冊を集計すると、屋敷地一〇筆で四町四反一畝一二歩、田畑一五町二反四畝二二歩、山林柳原五反三畝一四歩、総計二〇町一反九畝一六歩、しかも〝分付〟や〝抱〟の肩書が付された会田家の被官とみられる者の名請地が二町六反九畝二七歩ほどみられ、当時においても会田出羽家の勢威はきわめて強かったとみられる。しかしそれから間もなく、その原因は不明ながら会田出羽家は没落し江戸に退転した。その後宝暦九年(一七五九)会田平兵衛資武の代、越ヶ谷町東町裏耕地の新田開発をなしとげ、安永二年(一七七三)一月には伊奈備前守の差添書判によって拝領した畑一町歩の屋敷地、この実坪三町四反三畝一二歩、そのほか屋敷添の山林二筆五反一八歩にわたる会田家屋敷構内を元のまま買戻した。また資武は文政十年(一八二七)越ヶ谷久伊豆神社に新道と御神橋それに外御庭阿茄獅子一対を奉納している。このうち阿茄獅子一対は今でも神殿の前に残されている。なお、この家の子孫の方は現在静岡市に住まわれているが、この家には会田家系図の写しその他が所蔵されている。

会田出羽に与えられた伊奈備前守忠次による畑一町歩拝領の差添書