呑龍上人伝(一)林西寺住職当時の曇龍(どんりゆう)

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 呑龍上人は弘治二年(一五五六)四月二十五日武蔵国埼玉郡新方領一の割村(現春日部市)井上将監の次男として生まれた。幼名を龍寿丸という。龍寿丸は、誕生後健康に恵まれてすこやかに育った。また五、六歳頃からは常に自宅から五〇〇メートルほど離れた竜神の森に遊び、泥をこねては仏像を作っていたという。

 七、八歳の頃近くの大場村真言宗光明寺の寺小屋で読・書・礼儀作法を学んだ。そして永禄十二年(一五六九)一三歳のとき仏道に入ることを願って許され、隣村平方村(越谷市)の浄土宗白龍山林西寺第八世岌弁(きゆうべん)上人に引取られ、同年八月剃髪して名を曇龍と改めた。次いで元亀元年(一五七〇)四月、修業のため浄土宗白旗流の念仏根本霊場である江戸豊島郡貝塚の三縁山広度院増上寺の学寮に入寮、増上寺第十一世雲誉上人のもとで厳しい修業を積んだ。

 増上寺の管長はその後、天正十二年(一五八四)四月鎌倉大長寺から源誉存応上人(のちの普光観智国師)が迎えられて第十二世を継いだ。このとき存応は、当時増上寺学寮の教授を勤めていた曇龍を僧位昇進の第一に推挙、こうして曇龍はこの年宮中に参内し〝上人〟の号を授けられた。ときに曇龍二九歳であった。この上人号が授けられたのを機会に、平方林西寺第八世岌弁上人は曇龍を林西寺第九世に迎え、自らは中里の西岸寺に隠居した。

 林西寺の住職を継いだ曇龍は、源誉上人の許しを得て、夏と冬は増上寺に出向し、春と秋には林西寺に帰山して伝導教化に努めたが、この間の逸話に次のような伝承がある。

 ある年のこと、この年はまれにみる旱魃で田畑は乾燥して地割れが生じ、川水や井戸水も涸渇して飲料水にも差支える状態が続いた。人びとは雨乞いを願って遠近の諸社に祈願を続けたが一向に霊験は現われなかったので、ついに曇龍に救いを求めた。曇龍は祈禱は浄土宗の本意ではないが、農民の悲しみを見るに忍びないとし、竜神の森で百万遍念仏興行を執行した。するとこの念仏執行中一天俄かにかき曇り、車軸を流すほどの大雨が降り出したがこの雨は三昼夜にわたり降り続いた。このため枯死寸前の田畑作物は一挙に蘇生したので、農民はいずれもその徳に帰依し、曇龍を拝そうとする群衆で連日林西寺門前は市をなしたという。

 こうして曇龍の威徳をしたう衆生の協力により、林西寺の諸堂が再建されその寺運はいよいよ興隆に向かったので、人びとは曇龍を林西寺中興の僧と崇めた。この間、天正十八年(一五九〇)小田原北条に代わって徳川家康が関東に入国したが、家康は翌十九年十一月、領国の主な寺社に寺社領を安堵した。このとき林西寺には高二五石の寺領が与えられたが、別に曇龍へはとくに高二五石の学問料が与えられた。また曇龍はこの間相模国矢部の来迎寺、ならびに武蔵国八幡山の長福寺を開山、さらに下総国中里西岸寺の第二世住職や下野国佐野宝龍寺の第四世住職をも兼帯した。

 やがて慶長五年(一六〇〇)、曇龍は天正十二年より一七年間在山した平方林西寺を離れ、武歳国滝山(現八王子市)の大善寺に迎えられて第三世を継いだ。この頃の曇龍は、増上寺の源誉上人の片腕として、法問に、教化に、伝道に中央での活躍は目ざましかったが、慶長十三年八月には、存応上人の名代として駿府城に家康を訪問している。用件は明らかでないが、増上寺の寺格が、常紫衣綸旨の勅願所になるについての打ち合せであったとみられている。こうして同十五年七月、存応上人は宮中に参内し普光観智国師の号の綸旨を賜ったが、このとき曇龍は慶岩上人とともに随行、奉仕に勤めた。このほか曇龍は家康の御前法問には、しばしば観智国師の御伴として同席、論者として説法に勤め、家康からも厚い信任を得ていた。

平方林西寺山門