呑龍上人伝(二)太田大光院の開山

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 徳川氏の始祖は、もと得川氏を姓とした上野国新田郡の新田義重といわれ、家康はかねてからそのゆかりの地新田郡に先祖の追善供養として寺院を創建することを念願していたが、慶長十六年(一六一一)十一月、土井大炊頭利勝らにその見分を命じた。利勝らは調査のうえ新田郡太田の金山がもっともその地に適した所であることを復命、これにより翌十七年春から工事にとりかかり、同十八年三月に堂舎は竣功した。山号寺号はそれぞれの由緒にちなみ、義重山大光院新田寺と名づけられたが、通称大光院と呼ばれた。大光院は、義重に贈られた戒名大光院殿からとったものである。家康はこの大光院の開山僧には、観智国師の推挙により然誉曇龍を起用した。かくて曇龍は同年四月大善寺から大光院に入院したが、このときにはとくに家康から御朱印伝馬(将軍が与える無賃人馬)五〇疋三〇人が与えられた。その大行列の先頭には「上州大光院開山曇龍上人」と紫地に白く染め抜かれた長旗が押し立てられ、そのはなやかな行列は人びとの目を驚かせたという。時に曇龍五八歳のときであった。

 次いで大光院には翌慶長十九年新田郡太田村の内で高三〇〇石の寺領が寄進された。こうして大光院の開山僧になった曇龍は、ある夜竜宮界の大海竜王に招かれ、龍宮を訪れた夢をみた。この夢の中で曇龍は一座の者に説法を行なっていたが、同座の中に悪竜がひそんでおり、ひそかに抜け出して上人に害を与えようとした。ところが曇龍はこのとき金翅鳥(こんじちよう)に化し、この悪龍を一呑みにしたところで夢から醒めたという。以来曇龍は悟(さと)ることがあり、その名も呑龍と改めたといわれる。

 当時は徳川氏が天下を統一したとはいえ、弱肉強食を当然とした長い期間にわたる戦国乱世の影響で、人心は極度に荒廃し、生きるためには平然と親族を殺すことも珍しくなかった。ことに上州辺では連年にわたり凶作飢饉が続いたため、堕胎・間引き・嬰児殺しが一般的であった。慈悲深い呑龍はこれを深く悲しみ、人びとに因果応報の仏法を精力的に説教したが、このなかで呑龍は、

 一、人を殺さずものの生命を奪わない

 一、他人の物品に手をかけない、盗まない

 一、みだらで放従な生き方はしない

 一、うそ・いつわり・悪口は言わない

 一、酒はつつしむ

の五戒をわかりやすく説いてまわった。

 それとともに貧しさのため子供を養育できない家々から多くの幼児を預かり、大光院の寮に引取って育て、家の手助けができるようになる七、八歳になると家に帰した。こうして呑龍に預けられた幼児は心身ともいずれも健康に育ったという。これを伝え聞いた人びとは、呑龍の偉徳をしたい、いずれも呑龍に幼児を預けたいと願ったが、こうした願望のもとに後世〝とり子〟あるいは〝御弟子入り〟と称し、幼児を記帳のうえで弟子入りさせると、その子は無事に育つという信仰が生じた。こうして呑龍は〝子育呑龍〟として後世まで広く知られるようになったのである。

 ともかく呑龍は、御朱印寺領高三〇〇石の格式をもつ大光院の開山僧として徳川氏先祖の追善法会に多忙をきわめたが、そのうえ前記のごとく子育てに衆人の説法に精力的な活動を続けた。しかも呑龍はその後も家康の側近観智国師にしたがって御前法問を勤め、家康の信任ますます厚かったが、家康は元和二年(一六一六)四月駿府で没した。

 ちょうどこの頃呑龍は、禁鳥である鶴を殺し幕吏に追われて逃げこんできた若者をかばったが、幕府の追求をのがれ、若者ともども信州小諸の山中に逐電するという大事件を起こした。呑龍六一歳のことである。

呑龍上人自作の尊像(大光院蔵)