新田開発と会田七左衛門政重(まさしげ)

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 村名には、その地の開発者の名をとってつけられたものが少なくない。現草加市新田地区の長右衛門新田、金右衛門新田、九左衛門新田など数多くの新田村がそれであるが、越谷地域では江戸時代の初期、大房村(現北越谷)の農民弥十郎が開発したと伝えるが弥十郎村がある。ほかに代表的な例では、神明下村の会田七左衛門政重の開発になる七左衛門村(現七左町)がある。

 もっとも七左衛門政重が開発した地域は、七左衛門をはじめ大間野・越巻・谷中にわたる出羽地区の大半で、当初は槐戸(さいかちど)新田と称されていた。この辺りはもと綾瀬川通りに広がる一大沼沢地帯であった。この先越ヶ谷郷の土豪会田出羽氏がこの沼沢地の干拓をはかり、排水溝を造成してその開発の基を開いていたが、これを出羽堀と称した。こうした由緒から明治二十二年の町村合併時には、その新村名を出羽村と称したのである。

 ところでこの出羽地区の開発者会田七左衛門政重は、寛永十九年(一六四二)齢六二で没しているので、逆算すると天正八年(一五八〇)の生まれである。その出自は詳らかでないが、七左衛門家八代重昌による文化年間の建碑とみられる碑銘によると「其先出於北条十郎氏房、有故改今姓」とあるので、もと岩槻城主であった北条(太田)氏房の子か、その所縁の者であったとみられる。おそらく天正十八年(一五九〇)岩槻落城に際し、当時一〇歳であった政重は城内から脱出して遁(のが)れたのであろう。

 これを裏づけるように江戸時代の地誌「越ヶ谷瓜の蔓」には、七左衛門政重は越ヶ谷郷の土豪会田出羽資久に拾われて養育され、成長の後神明下村に分家した、とある。また会田家の過去帳には、養父母として七月に没した道貞禅定門と妙林禅定尼、養祖父として法室妙伝の法名が記されている。この養父母が出羽資久夫妻であるか不明であるが、資久は法名を道光といい七月十六日の忌日である。

 ともかく神明下村に分家した七左衛門政重は関東代官頭伊奈半十郎忠治の地方代官として伊奈家に仕えていたが、検地の奉行なども勤めている。

 『新編武蔵』に限ってこれをみても、寛永六年(一六二九)の足立郡鴻巣領東間村、同領篠津村、同花野木村が「時の御代官会田七左衛門糺せり」とあり、さらに寛永十二年の多摩郡野方領下荻窪村、同領阿佐ヶ谷村、同領堀之内村の検地には、同じく伊奈家の家臣阿出川惣兵衛などともに検地の奉行を勤めている。

 また政重は先に会田出羽氏が出羽堀を造成してその干拓をはかっていた出羽地区を伊奈氏のもとで開発を進め、寛永の末年には高一〇二〇石余の村高を打ち出していた(『武蔵田園簿』)。当会田家に伝わる天和三年(一六八三)成立になる「神明縁起」という巻物の書によると、政重は元和年間(一六一五~二三)伊奈氏に仕え、綾瀬川通り大沼の地を検視して開発計画を作成、力を尽し心を励ましてその開発に努めた。その結果この不毛の地は美田と化し多くの人びとが定住してその集落は繁栄するようになったが、それにともないのちの七左衛門村に会田出羽家の一門小池坊尊慶を開山とした真言宗観照院を、越巻村に同宗満蔵院を、谷中村に同宗妙柳院を、神明下村に同宗政重院を開基、さらに七左衛門村に武主大明神を勧請するなど新田村の村づくりに多大な功績を残した。伊奈氏はこれを賞しこの新田を官領(幕府領)に組入れ、七衛新田の称号を許した、とある。

 なお七左衛門の観照院裏に建てられてあった巨大な長屋門は、おそらく新田開発にあたっての出張陣屋であったとみられるが、この長屋門は初め七左衛門村の預り地であった。その後、元文年間(一七三六~四一)新たに七左衛門村上組名主になった野口八郎左衛門家の所有になったが、戦後越谷城という料亭に利用されたこともあった。しかし現在は撤去され、比企郡のある村に復元されているという話である。

 いずれにせよ新田開発によって今日の出羽地区の基を開いた政重は寛永十九年十一月十四日、六二歳で没し神明下村政重院に葬られた。法名を日映観照禅定門と称される。

七左衛門の長屋門(撤去されて今はない)