伊奈家と会田七左衛門家

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 関東代官頭伊奈半十郎忠治に仕えた会田七左衛門政重の跡を継いだのは七左衛門政連(まさつら)と称し同じく伊奈家に仕えた。家を継いだ政連は何を祈願したものか不明ながら、室町期の開板と推定される六〇〇帖の「大般若経」を、慶安三年(一六五〇)十一月、島(現岩槻市末田)の真言宗金龍山金剛院へ奉納している。

 すなわちその奥書には本願主として「武州寄西庄越ヶ谷郷会田七左衛門尉政連、比外少々施入有之」とあり、この寄進先は「前住金剛後住小池法印尊慶、金剛院当住祐重」と記され慶安三年霜月の年号が付されている(葛飾区寺院調査報告書)。末田村の金剛院は、第六世住職金剛の代金剛院と寺号を改めたが、その第七世には越ヶ谷郷会田出羽家からの出自をもつ尊慶が住職となり高田毘沙門堂総持寺の住職などを兼帯した。のち尊慶は豊山長谷寺の第五世化主に任ぜられ小池坊尊慶と称された。つまり七左衛門政連は血縁のつながりある尊慶との関係から金剛院第八世祐重の代に大般若経六〇〇帖を寄進したとみられる。この大般若経はどのような経過からか不明ながら、現在葛飾区堀切の真言宗普賢寺に秘蔵され、区の文化財になっている。

 さて政連は会田七左衛門家過去帳によると、延宝二年(一六七四)七三歳で没しているが、その子は兵左衛門政信と称し元禄三年(一六九〇)四八歳で没している。また四代目は七左衛門政永と称し、元文五年(一七四〇)七三歳の没年、この政永は関東郡代伊奈家の地方掛りを勤めていたとみられ、享保元年(一七一六)の公方(徳川家継)薨去触、同三年の御鷹御用廻村触、同四年の鷹師方扶持米触、同四年の川俣用水普請金上納触、同五年諸秤無断修復禁止触などの触達しを会田七左衛門の名で富田治右衛門とともに村々に伝達している(「触書旧記」)。会田家五代は真蔵政博と称し、伊奈家に仕えていたかどうかは不明ながら、享保十五年(一七三二)父政永に先立ち、二九歳で病没している。

 七左衛門家六代は孫七政章と称し天明五年(一七八五)八二歳で没している。因みに安永から天明にかけてのものとみられる伊奈家赤山陣屋の家臣屋敷配置図によると、伊奈家の重臣永田九郎兵衛、富田吉右衛門、田口守右衛門、大河内与兵衛、新井孫兵衛ら重立五三名のなかに屋敷地坪八反九畝九歩の会田孫七が記されており、これが当の会田孫七政章とみられる。したがって当時会田七左衛門家は伊奈家のなかでも重立った家臣の一人であったとみてよいであろう。

 次いで七代は政貴と称し、伊奈家に仕えたかどうかは不明なから明和二年(一七六五)三三歳で没している。つまり先代より早く亡くなったことになる。六代政貴が早世してしまった会田家では、信州の土屋氏から養子を迎えて八代目とした。名を七左衛門政待と称す。ところが、八代政待も、寛政五年(一七九三)齢三〇にして没してしまい、八代目は、政待とさほど年齢の違わない重昌が継いだ。八代重昌は文化十年(一八一三)の没年、享年四六歳であった。

 なお伊奈家関係史料によると、寛政二年当時伊奈家目付格会田七左衛門と在出役会田孫七が載せられているので、当時父子で伊奈家に仕えていたことは確かであり、これによると政待が七左衛門、重昌が孫七を称していたのはほぼ間違いない。こうして会田氏は父子で伊奈家に仕えていたが、寛政四年三月伊奈家の当主忠尊が「様々な不埓」を犯したとして改易処分に付され、多くの家臣は伊奈家を去ったが、当然会田七左衛門家も七代の政待からは野に下り神明下村に居住した。

 また会田七左衛門家の一統に金沢氏がいる。会田家「過去帳」によると、延宝七年(一六七九)の没年とある金沢権兵衛祐清がその家の始祖である。祐清はもと会津の領主保科肥後守の家臣であったが、浪人して会田七左衛門家に寄宿した。このとき二代七左衛門政連の娘を娶り会田家の家禄を分知されたとあるので、金沢氏も早くから伊奈の家臣に組入れられていたとみられる。ちなみに金沢氏も七左衛門家と同じく金沢縫殿の名で赤山陣屋内に屋敷地が与えられていた。この金沢家の墓所は神明下政重院跡の会田家墓所の隣りにある。

赤山陣屋内家臣屋敷割図