伊奈家の内紛と会田七左衛門

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 伊奈半十郎忠治以来一〇代二〇〇年近くにわたり、関東幕府領のうち三〇万石の地を統治し、治水に農政に今日の関東の基を開いた伊奈氏は、寛政四年(一七九二)閏二月「様々な不埓」を犯したとして関東郡代を罷免された。次いで同年三月知行地残らず召し上げられ永々蟄居(ちつきょ)を申渡され、ここに幕府の名門伊奈家は滅亡した。では幕府に多大の功労があった伊奈家を幕府がなぜ廃絶させたのであろうか。

 この先伊奈家は、明和元年(一七六四)に起きた中山道筋伝馬騒動の鎮撫、天明元年(一七八一)の高崎藩農民騒動の鎮圧、天明七年の江戸打毀し騒動の収拾など、数々の功績を顕わし関東の重鎮として君臨していた。しかし幕府にとっては、本来勘定奉行の支配下にある関東郡代が、関東の領主なみに江戸近郊の幕府領を世襲で続治し、しかも鷹場や河川など幕府の重要な職務を執行してその中枢的な存在であったことは、幕府職制のうえからもすでに桎梏となっていたに違いない。

 かくて伊奈家の改易が断行されたが、その直接のきっかけとなったのは伊奈家の御家騒動である。その前に御家騒動のきっかけとなった伊奈家の内情をみてみよう。伊奈家を滅亡させた忠尊の先代忠敬は、実は大和国郡山一五万石の城主松平(柳沢)申斐守吉里の六男で、明和六年(一七六九)伊奈家七代忠辰の娘豊の婿養子に迎えられて伊奈家九代を継いだ。忠敬と豊の間には美喜という娘がいたが、安永七年(一七八八)三月、忠敬が病でたおれるにあたり、嫡子忠善が幼年であるのを理由に、備中松山五万石の城主板倉周防守勝澄の子忠尊をこの美喜の婿養子に迎え伊奈家一〇代を継がせた。このとき忠敬は一五歳の忠善を忠尊の養子に位置づけたのである。

 その後忠尊と美喜の間には子がもうけられなかったが、妾八尾に岩之丞が生まれるに及び、伊奈家の内情は複雑な様相を呈した。すなわち岩之丞は忠善の養子とされたが、妾八尾は忠善を排斥し岩之丞を直接忠尊の跡継ぎにすえるよう忠尊に迫った。これを知った伊奈家の重臣永田半太夫はこれを諫めたが、逆に天明八年職を奪われたうえ赤山陣屋内の屋敷に蟄居を命ぜられた。この頃から伊奈家家中は忠尊派と忠善派に分裂し、この間に立って忠尊の乱行が続くようになったようである。

 おりもおり伊奈家は財政の窮迫から一万五〇〇〇両を幕府から拝借していたが、この返済期限が寛政元年(一七八九)にあたっていた。ところがこの年馬喰町の郡代屋敷が類焼にあったためもあり、返済期限の延長を幕府に願いでたが、幕府はこれを認めず特例として寛政二年より三年期の分割上納を命じた。これに対し忠尊は「関東郡代職と引き替えても二〇か年の延期を幕府に認めさす」と広言し、いよいよ乱行をつのらせた。

 この忠尊のごうまんな態度に対し、お家の一大事とみた譜代家臣のうち会田七左衛門・杉浦五太夫・野村藤介の三名は、寛政二年六月忠尊の実兄で当時寺社奉行を勤めていた板倉周防守勝政のもとへ、忠尊の乱行と幕府に対する不遜な態度を訴え、その善処方を願い出た。つまり会田七左衛門らは暗に忠尊を隠居させ忠善をその跡にすえるようにとの配慮を望んでいたのである。しかしこの板倉家への密訴一件は忠尊の怒りを買い、当の三名は謹慎処分に付されたが、七月になって謹慎がとかれた。謹慎をとかれた会田七左衛門らは、なおも四〇〇名近い伊奈家家臣に働きかけ、同志五四名連署による忠尊弾劾の諫言書を同年十一月十三日伊奈家年寄衆を通して忠尊に提出した。

 この内容の趣旨は「忠尊の不行跡はすでに江戸中の評判で、幕府でも隠密を差し向け内情を探らせているようだ。しかも拝借金と引きかえに関東郡代を辞めると広言してはばからない忠尊の幕府を恐れぬ態度は、名門伊奈家の滅亡を招くものである。こうしたなかで家臣どうしも和合せず、家中混乱のもとにあって職務にも差支えている状態である。こうした伊奈家の危機を収拾できるのは、赤山に蟄居を命ぜられている三河以来の重臣永田半太夫父子しかいないので、直ちに永田父子の蟄居を解き御家再興に専念させるように」というものであった。

赤山陣屋跡