会田七左衛門らの入牢

49~51/236ページ

原本の該当ページを見る

 会田七左衛門ら五四名連署による諫言書を受理した伊奈忠尊は、同年十一月二十六日伊奈家年寄衆列座の席で、「諫言書の趣きは聞届けた。以来改心するので一統安堵するように。また願いの通り永田父子の謹慎を解く」という申し渡しを行った。しかし永田父子の復職を認めない忠尊に不満をもった同志家臣は、再び永田半太夫再勤願いを出して忠尊の反省を求めた。

 ところが忠尊はこの月病気を理由に本所の下屋敷に引き籠り、翌寛政三年五月まで登城はおろか郡代所にも出勤せず、遊里に足繁く出入りして乱行をつのらせた。この間同志家中は再三にわたり伊奈家年寄衆に忠尊への取り次ぎを願ったが、返辞が得られないまま寛政三年四月六日、同志一同連印による忠尊出勤の要請願書を忠尊宛に提出した。これに対し忠尊は激怒し、永田半太夫に再び赤山蟄居を命じた。

 蟄居を命ぜられた永田半太夫は、ことのいきさつをしたためた嘆願書を幕府の親しい要人に提出したようであり、これを受けた幕府は、大目付安藤対馬守をして伊奈家内紛の実情を尋問した封書を、忠尊の欠勤中郡代職を代行していた忠喜の登城をまって手渡した。このため伊奈家年寄衆の評議による答書が作成され、五月十三日幕府の呼出しに応じ忠善がその答書を提出した。ところが幕府は年寄衆評議による答書でなく、忠尊直接の返答書が必要だとして答書は却下された。ここで忠尊ははじめて登城に応じ、同十五日忠尊直接の返答書を幕府に提出した。この内容は、伊奈家の内紛は昨年の一件と思われるが、これはすでに済んだことである、との不愛想な答書であった。しかし幕府はこれを深く詮議しようとはしなかった。

 忠尊に対する幕府の取調べに期待していた家中の同志一同は、そのまま何事もなく済みそうな気配に覚悟を定め、伊奈家内紛の原因とその経過を詳細にしたためた「始末口上書」を幕府に提出した。しかし幕府は何故か伊奈家の内紛を積極的にとりあげて収拾しようとする気配をみせなかった。一方同志家中による幕府への密訴を知った忠尊は激怒し、同年六月会田七左衛門・杉浦五太夫父子・野村藤介の四人を伊奈家屋敷内に監禁するとともに、同志家中残らず蟄居の処分に付した。監禁された四人のうち、杉浦五太夫は伊奈家の将来を案じながら病没した。この間幕府は伊奈家の内紛に対し種々協議を重ねたようであるが、結局、「一家主従のことなれば」公儀の吟味は必要なかろうとて、その処置を忠尊ならびに板倉周防守に一任した。こうして同年十一月板倉周防守によって家中の取調べが行われ、屋敷差留中の会田七左衛門ら三名は本所の伊奈家牢舎に入牢、謹慎中の永田半太夫父子は永牢、ほか同志の家中ことごとく御暇を申し渡された。家臣らはこの処断を、忠尊の理由のない「自分咎」であると納得しなかったが、幕府もこの取扱いに不満であったとみられ、忠尊を一応取調べのうえ同年十一月九日、家中不取締りのかどで出仕を止め、謹慎を申し渡した。

 これより先同三年十月二十四日、忠尊の養子忠善は、検見のため赤山陣屋に出向したが、そのまま出奔して行方不明になっていた。忠善の出奔は八尾の子岩之丞を家督に立てようとした忠尊らの謀計に迷惑し、身の危険を感じての逃亡であったといわれる。事実忠尊派による忠善毒殺未遂の説などもある。

 一方忠尊は、翌四年一月九日謹慎を解かれ出仕を許されたが、そのときはすでに自身の罪状が明るみに出て、幕府の糺明をうけることを予測していたようであり、伊奈家の滅亡を防ぐため、忠善の出奔を幕府に隠し関東郡代職を忠善に譲っていた。ところがこれが逆に伊奈家を滅亡させる幕府の絶好の口実となった。

赤山源長寺にある伊奈氏顕彰碑