伊奈家の滅亡と会田七左衛門

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 諸般の状況が極度に悪化しつつあるのを察した忠尊は、養子忠善の出奔を隠し、かつ関東郡代職を忠善に譲っていたが、これが幕府の知るところとなり、幕府をあざむきかつないがしろにした行為、その罪状許しがたいとして寛政四年(一七九二)閏二月二十六日関東郡代を罷免された。次いで三月九日、幕府は伊奈家の知行地ことごとく没収のうえ、忠尊を板倉周防守にお預けとした。二〇〇年近くの伝統を誇った伊奈家はここに廃絶するに至った。

 伊奈氏を神仏のように崇敬していた関東農民は、お家の内紛による処断である以上このことで幕府に抵抗を示すこともならず、ただ傍観するほかなかった。つまり伊奈郡代は農民からの援護も受けられず、内部からもろくも崩れ去ったのである。もっとも幕府は名門伊奈家の滅亡を惜しみ、末家伊奈半十郎の嫡子小三郎忠盈(ただみち)に新地高一〇〇〇石を与え伊奈家の名跡を継がせた。

 一方赤山陣屋から家臣小島外守一人をともなって出奔した忠善は、比叡山に隠れ住んでいたが、小島外守の妻が幕府評定所にこれを訴え出たため、寛政四年六月四日忠善の又従兄にあたる大和郡山城主松平甲斐守保光が忠善を比叡山から江戸屋敷に連れ戻した。かくて忠善から出奔の真相を聞き糺した保光は、すでに処罰されていた同志家臣に全く罪がないことを知り、同月六日ただちに本所元伊奈家牢舎へ家臣を差し向け、牢内の会田七左衛門・杉浦五郎右衛門・豊島庄七に対し「御差構えこれなく候間、勝手次第引取り浪居致すべく」申し渡して牢内から解放し、また永田半太夫父子の永牢も解いた。

 ここで幕府は忠尊を改めて板倉家から松平甲斐守屋敷に移し、忠善とは別に吟味を続けたが、結局忠尊・忠善父子を対決させてその罪を明らかにすることは義において忍びがたいとして、忠尊を改めて南部内蔵頭に預け替えとした。また忠善も、累代の血脈断絶の恐れを弁えず、軽々しく出奔したのは未熟千万なりとして松平甲斐守にお預けとなり、一件は落着した。

 この間、罪はれて本所牢から解放された会田七左衛門は、神明下村に帰住したが、この先寛政三年十一月伊奈忠尊による「自分咎」によって屋敷地は欠所を申渡され、伊奈家借財の担保として幕府に届けられていた。このため寛政四年七月、七左衛門村で田畑九町二反二〇歩、神明下村で田畑屋敷一一町三反八畝五歩、越巻村(現新川町)で田畑二町九反四畝一九歩、合計二三町五反三畝一四歩に及んだ会田七左衛門家所有の田畑屋敷地は残らずお払い入札の処分をうけた。このとき会田七左衛門らとともに伊奈家の危難を救おうとした大川戸村杉浦家も、同様その田畑屋敷はお払い入札に処せられている。おそらくこうした度重なる災難に疲れ切ったのであろう会田七左衛門は、翌寛政五年六月没した。父とともに伊奈家に仕えた重昌も、その後文化十年(一八一三)七月没するまで花を愛して隠棲したという(重昌碑)。なお伊奈家のその後を示すと次のとおりである。

 永々蟄居を申渡され南部内蔵頭にお預けとなった忠尊は寛政六年八月南部家で病没、ときに忠尊三一歳。その遺骸は駒込吉祥寺板倉周防守墓所の傍らに葬られた。また妾八尾が生んだ忠善の養子岩之丞は厄介者として板倉家屋敷に引取られた。一方松平甲斐守にお預けとなった忠善は、姉美喜(忠尊の妻)とともに大和国郡山城内緑曲輪に居住したが、その身辺は自由であったとみられ、妾腹から豊次郎をもうけている。

 その後享和三年(一八〇三)四月、お預けが赦免されてからは松平甲斐守の江戸下屋敷に居住、ここでも妾腹から永田半太夫の養子となった金次郎をもうけているが、忠善は文化四年(一八〇七)七月三五歳で没し、赤山源長寺に葬られた。つまり伊奈家の血脈はここで絶えたわけであるが、その家臣会田家や杉浦家などは今なおその家系をれんめんとして保っている。このうち会田家九代政義、一〇代政恒は神明下村の名主などを勤め村政に尽力してきた。

会田七左衛門家の墓所