大沢町の町人役

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 千住・越ヶ谷・粕壁を経て日光に至る街道は、江戸時代日光街道と称され、幕府の管掌のもとにおかれた五街道の一つに数えられていた。およそ現在の国道四号線(一部県道足立越谷線)通りである。

 この道が徳川家康によって制度的に公道と定められたのは慶長七年(一六〇二)のことで、当時奥州街道と称された。この公道としての条件には、人馬の仲継所、それに旅人の休泊に供する旅籠屋などを備えた宿場を必要とした。当時の輸送機関は今日のように電車や自動車と異なり、人や馬が旅人や荷物の運搬にあたったので、その疲労を防ぐためリレー方式をとり、少なくとも二里か三里(八―一ニキロ)の間に一定の宿場を設置する必要があったのである。こうしてそれぞれの街道筋に幕府(慶長八年江戸に幕府が開かれた)の命によって宿場が設置されたが、輸送機関としての人馬の提供や旅人に対する休泊の需用に応じさせるには、広い地域に散在する自然村落をそのまま宿場に利用する訳にはいかなかった。

 そこで街道筋の定められた場所には、道路に面して軒を接して区画された人工集落が造成され、周辺の集落から人びとが移住させられた。越ヶ谷町では、四町野(現宮本町)・花田・瓦曾根村などの農民が集まって町並を構成し、越ヶ谷郷という広い地域の郷名をとって越ヶ谷町と名付けられた。つまり越ヶ谷町の元村は、四町野など周辺の村々であったのである。

 また大沢町は、はじめ宿場町越ヶ谷の助合宿として同じく人工による町並が構成されたが、この住民の多くは鷺後や高畑の集落から移住してきたといわれ、このためとくに高畑の集落は無人の地となり、その集落地はすべて新畑に開発されたと伝えられる。

 これら人工の町並が造成された時期はつまびらかでないが、大沢町の場合、その町割に当たっては、同町の旧家深野・内藤両家に対し他の宿ではみられない〝町人役〟という特殊な身分が与えられた。おそらく大沢町の造成に土地を提供するなど、町づくりに協力したことによるものであろう。

 この〝町人役〟に関しては、大沢町の地誌「大沢町古馬筥」に、慶長十八年二月支配所秩父郡で病没した関東代官頭配下の代官杉浦五郎右衛門によって認知されたとあるので、少なくとも慶長十八年以前には町の屋敷割が行われていたのが知れる。もともと宿場の屋敷地は、街道に面した屋敷間口が六間(約一一メートル)以上で伝馬屋敷、六間以下が歩行屋敷と定められ、その伝馬負担が異なっていたが、およそ六間ほどの間口が普通であった。

 ところがこの他の宿場ではみられない大沢町の〝町人役〟は、一〇間以上の大間口が許され、かつ伝馬役などが免除されていた。しかもその役は名主と同様の地位を占め、公式の書状、たとえば訴訟書や質地証文などには必ず名主とならんで署名捺印をすることになっていた。こうして身分的にも高い地位を占めていた町人役は、大沢町唯一の特権的な存在であったが、貞享年間(一七八四~)大沢町惣百姓の訴訟をうけ、奉行所裁許(判決)によってついに町人役は廃止されるに至った。つまり幕府の定めた宿場の職制には、問屋・名主・年寄という公けの役職が置かれている以上、その由緒は導重するものの、職制から逸脱した町人役という役職は認めがたいというものであった。

 なおこの訴訟のきっかけになったのは、大沢町の住人稲葉屋四郎右衛門の下女が、あるとき木履(ぽっくり下駄)をはいたまま町人役の深野所左衛門に目通りしたが、所左衛門からその無礼をきびしく咎められた。日頃町人役の権威に不満をもっていた町の住人が、これに対し抗議を申し立てたことから出入りとなり、ついに訴訟沙汰に発展したといわれる。その後〝元町人役〟深野・内藤の両本家は、その屋敷地を分地したり、手離したりして衰微したと伝えられるが、これも変化してやまない時代の流れといえよう。

昭和30年ごろの大沢の町並