左甚五郎と越谷

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 日光山の徳川家康廟(後の東照宮)は、寛永十三年(一六三六)四月、陽明門をはじめ華麗なる諸堂が竣功し、三代将軍家光の盛大な日光参詣が行われた。この日光廟内諸堂の建設にあたっては、飛弾国(現岐阜県)などから多くの工匠が徴用されたが、このなかに名工中の名工として左甚五郎の名があげられ、甚五郎の作品にまつわる伝説が数多く語りつがれている。

 一説によると、左甚五郎は実在の工匠でなく、左甚五郎の「左」は「飛弾の」が「ひだり」になまったもので、飛弾の番匠を総称して左甚五郎にしてしまったのではないかといわれる。いずれにせよこれら飛弾などの工匠は江戸に呼びよせられ、日光街道を通行して日光に向かったとみられる。こうして日光街道筋には甚五郎が建立したという堂舎や、彫別作品だとする伝承が多いのであろう。

 越谷地域に限ってみても、大泊慈眼寺境内の観音堂や、大房大江りの薬師堂がそれである。いずれも左甚五郎が日光に向かう途中、一夜のうちに堂舎を建立し、「うるし千貫、朱千貫を」〝朝日さす夕日輝く花の下〟に埋めて立ち去ったと伝えている。さらに天文三年(一五三四)の開山を伝える蒲生村の真言宗清蔵院の山門に掲げられている龍の彫別も甚五郎の作だといわれる。この龍に関しての伝承によると、日光に向かう甚五郎が途中清蔵院に一夜の宿を乞い、ていちょうに接待された御礼として龍を彫刻して行った。住職は喜んでこの龍を山門にかけたが、それからというもの毎晩のように寺院付近の田畑が荒らされるようになった。

 村人たちに不寝番をつけて耕地の見廻りを続けたところ、清蔵院山門の龍が門を抜けだして夜遊びしていることがわかった。村人は住職に龍を出歩かせないよう頼んだため、住職は龍の眼に釘を打ちこんだが、龍はこれに怒り、田畑に四斗樽ほどの足跡をきざみつけながら作物を荒らし廻った。これに驚いた住職は龍の眼から釘を抜きとり、そのかわり金網で龍を囲ったところ、以来龍の出歩きは止まったという。ちなみに清蔵院山門の龍には現在も金網が張られたままである。おそらくこの伝説は、すばらしい彫別品を長く後世に伝えるため、これを疵つけたり破却されたりしないようにとられた夢のふくらむ生活の智恵であったろう。

 また清蔵院の近く日光旧街道ぞいに、えびす屋(現八百屋さん)と大黒屋(植竹家)という屋号をもった旧家がある。このうちえびす屋さんにはおよそ三センチほどの小さな「えびす」、大黒屋さんにはおよそ一〇センチほどの「大黒天」の彫刻物が大切に保存されている。これは同じく左甚五郎が日光に向かう途中、世話になった御礼に彫別したもので、これらの由緒から屋号がつけられたと伝えている。

 ところで十数年前のこと、清蔵院本堂の改修工事が施工されたが、このとき寛永十五年二月の日付けで「是門ノ作者和白□□南ゴウリハグ村、井ノ乃久次郎立花家次」との文字が読みとれる山門の棟札が発見された。このうち読みとれない和白□□は、あるいは和泉国(現大阪府)南郡であるかもしれない。この清蔵院山門を建立した久次郎が、日光東照宮造営に参加したかどうかは不明ながら、寛永十五年という年代から推して、これに参加した工匠とみても不自然ではない。だとすればその途中何かの機縁で清蔵院と知り合い、東照宮の落成後、再び蒲生を訪ずれて山門を建立したのかも知れない。現在の山門はその後の建築物とみられるが、龍の彫別は寛永十五年のときのものとみてよいであろう、今後の調査を待ちたい。

清蔵院山門の龍の彫刻