(越谷の支配関係(一))岩槻藩領の村々

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 江戸時代江戸近郊の地の支配区分は、御料とも称され代官が支配にあたった幕府直轄領、大名領である藩領、地頭とも称した旗本知行所、それに将軍から領地を与えられていた寺社領の入組支配が普通であった。このうち越谷地域の支配領域をみると、西方大聖寺や平方林西寺その他の朱印地寺領を除き、当初はすべて幕府の直轄領であった。その後各村々のなかには各大名領や、旗本知行所に組入れられた村も少なくない。

 ところで越ヶ谷地域における江戸時代の村は二町四九か村を数えたが、明治二十二年の町村合併後もこれら村々は大字として残された。このうちまず岩槻藩領の村々からその支配関係をみていこう。岩槻藩は天正十八年(一五九〇)高力河内守清長が領地高二万石で岩槻に封ぜられたが、その子忠房の代元和五年(一六ニ四)遠江国浜松に転封、かわって同六年青山忠俊が四万五〇〇〇石で岩槻に入部したが、同九年将軍の怒りを買って〓〈采の中段『ツ』部分、左端の点を右から左下へはらい『爫』のようになる〉地を没収され上総国大多喜に蟄居した。かわって幕府老中阿部備中守正次が五万五〇〇〇石で岩槻に入部したが、寛永二年(一六二五)精勤を賞され禄高が増加された。

 このとき阿部氏の加増にともない、市域のうち岩槻に近い三野宮・大道・大竹・恩間の四か村が岩槻城付きの村に組入れられた。その後天和元年(一六ハ一)阿部氏は丹後国宮津に転封となり、そのあと老中板倉重種が六万石で岩槻に入部したが、翌二年板倉家の御家騒動で失脚、かわって同じく老中戸田忠昌が五万七〇〇〇石で岩槻に入部した。次いで貞享三年(一六八六)戸田氏は下総国佐倉に転封、そのあと松平忠周が四万八〇〇〇石で岩槻に入部したが、松平氏も元禄十年(一六九七)但馬国出石に転封、かわって同じく老中小笠原長重が五万五〇〇〇石で岩槻に入部した。

 このとき市域のうち寛文二年(一六六二)から天和二年(一六ハ二)まで土屋領、その後幕府領に置かれていた西新井村が岩槻藩領に組込まれたが、宝永二年(一七〇六)小笠原氏が一万石の加増をうけたとき、大泊間久里・越巻(現新川町)・谷中・四町野・長島の各村が岩槻藩領に組込まれた。このうち間久里・大泊・長島の三村は、正徳元年(一七一一)遠江国掛川に転封となった小笠原氏のあと、永井尚敏が三万八〇〇〇石で岩槻に入部したとき、前記大泊など三か村は五か年間で、岩槻藩領から幕府領に復したもようである。

 次いで宝暦六年(一七五七)美濃国加納に転封となった永井氏のあと、大岡忠光が二万石で岩槻に封ぜられたが、このとき谷中村それに西新井村高一一一〇石余のうち一四〇石余の地を除き、西新井村の大部分と越巻・四町野の各村は幕府領となり、かわって大松村が岩槻領に組入れられた。以来寛永二年(一六二五)より岩槻藩領であった大道・大竹・恩間・三野宮、宝暦六年から岩槻領となった谷中.大松それに西新井の一部が明治四年(一八七一)の廃藩置県まで岩槻藩の支配下に置かれていた。また岩槻城主も同じく明治四年まで大岡氏が引続き藩主として在城した。

 なお西新井村は宝暦六年から幕府領と岩槻藩領とに分けられたので、二名の名主が置かれたが、このうち幕府領の名主は「御料名主」(斉藤家)、岩槻藩領の名主は「私領名主」(新井家)と呼ばれたが、このほか岩槻藩領村々の名主では、恩間村(明治四年恩問新田分村)の渡込家、大道村の栗原家、三野宮村の尾崎家、大松村の長野家、谷中村の関根家などが確かめられる。

岩槻領と刻まれた恩間村の馬頭観音像