(越谷の支配関係(二))忍藩と古河藩の村々

62~64/236ページ

原本の該当ページを見る

 天正十八年(一五九〇)、関東に入国した徳川氏は関東領国にそれぞれ家臣を配置して領地を与えたが、このうち忍(現行田)には松平家忠が一万石で入封した。次いで文禄元年(一五九二)家忠は下総国香取郡上代に転封、かわって徳川家康の第四子松平忠吉が一〇万石で忍に封ぜられた。その後慶長五年(一六〇〇)関ヶ原戦の直後忠吉は尾張国清州城に移され、そのあとは忍に城番が置かれたが、寛永三年(一六二六)酒井忠勝が五万石で忍城に入った。次いで翌四年、忠勝はその父である川越城主酒井忠利の跡を継いで川越藩主となり、そのあとは再び忍に城番が置かれたが、寛永十年(一六三三)松平伊豆守信綱が二万六〇〇〇石で忍に入部した。

 この信綱も同十六年川越に転封、そのあとを老中阿部忠秋が五万石で忍城に入ったが、忠秋は寛文三年(一六六三)三万石の領地加増をうけた。このとき越谷市域のうち、それまで幕府領であった見田方(現大成町)・南百・四条・別府・千疋・麦塚(以上東町)・柿ノ木(草加市)それに伊原村の半高が忍藩領に組入れられた。その後阿部氏は正能を経て正武の代の元禄七年(一六九四)には高一〇万石を領地したが、その子正喬の代の元禄十一年(一六九八)、半高忍藩領であった伊原村が全高幕府領に復し、そのかわり東方村(大成町)が忍藩領に組込まれた。

 以来見田方・東方・南百・別府・四条・千疋・麦塚・柿ノ木の八か村高五〇〇〇余石の地は「柿ノ木領八か村」と称され、明治四年(一八七一)の廃藩置県まで忍藩の支配に置かれていた。この間忍藩は阿部正喬から正允・正敏・正識、正由と続いたが、文政六年(一八二三)二月阿部鉄丸正権の代、奥州白河に転封となった。そのあとをうけて松平忠堯が同じく一〇万石で忍に封ぜられ、忠彦・忠国・忠誠・忠敬と続いて廃藩置県を迎えた。

 このように大相模の村々の多くは江戸時代忍藩領であったが、大相模のうち西方村(相模町)は、寛文十年(一六七〇)西方村高一五九〇石余のうち一七三石余が旗本万年三左衛門の知行所に分給され、さらに延宝六年(一六七八)残高すべてが堀田正俊の領分に組込まれていた。堀田氏はその後老中に進み天和元年(一六八一)、下総国古河(現茨城県)に封ぜられたので、西方村の大部分は古河領分となったわけである。次いで貞享二年(一六八五)堀田氏は出羽国山形に転封、そのあとは老中松平信之が九万石で古河城に入ったが、元禄六年(一六九三)乱心のかどで改易に処せられ、そのあとは松平信輝が古河に封ぜられた。

 その後元禄十一年武蔵国を中心とした所領配置の再編成にあたり、西方村は万年領を除き再び幕領に復した。なお蒲生村光明院の記録によると、古いころは蒲生村の半高は松平領であったとあるので、あるいは蒲生村の半高も元禄十一年まで古河藩領であったかもしれない。また伊原村の半高も寛文十年(一六七〇)柳ノ宮・小作田・伊草(八潮市)などとともに、土井能登守領分に組入れられていたが、天和二年(一六ハ二)土井氏の転封にともない幕府領に復した。つまり伊原村は寛文十年から天和二年までは、土井領と忍藩領であったとみられる。

 なおこれら村々のうち確認できる名主家をみると、忍藩柿ノ木領の割役名主には見田方村の宇田家、麦塚村の名主では中村家、四条村では飯島家、東方村では両中村家、千疋村では立沢家、西方村では藤塚組の斎藤家、山谷組の秋山家、藤塚万年領の石塚家、西方組の須賀家、大境組の秋山家、蒲生村では中野家と大熊家、伊原村では深井家などが挙げられる。

見田方宇田家の長屋門