(越谷の支配関係(三))越ヶ谷領の村々

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 岩槻藩領と忍藩領の村々は、比較的その領分などの変遷を知ることができるが、江戸時代「越ヶ谷」領と称された出羽地区や荻島地区におけるそれぞれの領分の変遷などは把(とら)えにくい。限りある史料によってみるかぎりでは、はじめ越ヶ谷領村々はすべてが幕府領であったが、寛文二年(一六六二)神明下・砂原・後谷・西新井・七左衛門・大間野の各村高およそ四〇〇〇余石の地が、土屋但馬守の領分に組入れられた。砂原村の松沢家文書によると「土屋但馬守様御知行高七千石、百姓家数二百五拾三軒」にて、家別普請役を勤めていたとあるので、このほかにも土屋領の村があった筈であるがつまびらかでない。

 その後土屋氏は天和二年(一六八二)駿河国田中に転封、かわって堀田豊前守が越ヶ谷領のうち四七〇〇石余の地を与えられているので、旧土屋領のうち堀田領に組入れられた村も少なくなかったようである。この堀田氏も元禄十一年(一六九八)近江国に所領替えとなり、旧堀田領の村々もそれぞれ領主が変えられた。このうち大間野村と西新井村は天和二年土井氏の所領替えにともない幕府領に復したが、このうち西新井村は元禄十年から岩槻藩領に組入れられていた。

 またそれまで堀田領分であった砂原村と後谷村は、元禄十二年一万二〇〇〇石の大名米倉丹後守の領分に組入れられた。米倉氏ははじめ下野国都賀郡皆川(現栃木市)を本拠にしたが、享保七年(一七二二)その本拠を武蔵国久良岐郡金沢の六ツ浦(横浜市)に移したので、以来六ツ浦領(藩)と呼ばれた。このほか越ヶ谷領のうち七左衛門・神明下などの村々は、元禄十一年から同十三年にかけ旗本相給(二人以上)の知行所に移されていた。この旗本領に関しては、すでに正保三年(一六四六)八条領東方村(現大成町)高八九四石のうち六七石余と、川柳地区上谷(後東方村に所属)の村高一三二石余の地が、鷹匠頭小野久内吉次の知行所に宛てられていた。この小野氏の知行所は元禄十一年下総国香取郡に移され、これにともない東方村は全高忍藩領に組込まれている。このほか西方村のうち高一七三石余の地が寛文十年(一六七〇)から旗本万年氏の知行地に宛てられていたが、この万年氏の知行地は明治の維新期まで変りなかった。

 次いで幕府は元禄八年(一六九五)武蔵国幕府領の総検地を施行、その結果にもとずき元禄十年から同十三年にかけて、旗本知行所を中心とした大規模な編成替えが実施された。これを元禄の地方直しと称されている。このうち越谷地域では野島村が旗本蜂屋半之丞と前田五左衛門の二給所に、小曾川村が武蔵孫之丞と高林源右衛門・芝山小左衛門の三給所に、荻島村が天野彦兵衛・矢頭権左衛門・大河内金兵衛それに幕府領の四給所に、神明下村と七左衛門村は、ともに平岡主殿・曾我七兵衛・菅谷平八郎・長山弥三郎・中条鉄太郎それに幕府領の六給所に宛てられたが、これら旗本領は越ヶ谷領に集中していたのである。

 以上岩槻・忍・六ツ浦の各藩領、ならびに土井領などや旗本領を除いた越ヶ谷・大沢の二町、ならびに平方・増林・瓦曾根など一八か村は、終始幕府領であったことが確かめられる。なおこれら幕府領や旗本領村々の主な名主を挙げると、越ヶ谷町会田家、大沢町江沢家、七左衛門村井出家・松沢家、袋山村細沼家、瓦曾根村中村家、登戸村関根家、増林村今井家・榎本家、大里村深野家、大林村瀬尾家、大房村黒田家、大吉村染谷家それに六ツ浦藩領松沢家などが確かめられる(紙面の都合で挙げられなかった旧家もありますが御諒承下さい)。

袋山村の細沼家長屋門