鶴と越谷

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 冬季はハンターが待ち望んでいた鳥類捕獲の解禁季節であり、狩猟を楽しむ人びとが獲物を求めて各地に出向いている。しかし、近頃は鳥獣の数も減少傾向にあるとみられ、鳥獣の保護区域や休猟区域が拡大されてハンターの活動もやりにくくなっているようである。

 ところで、江戸時代領主が鷹を放って野鳥を狩猟する特定の地域を「鷹場」と称し、一般人の狩猟は堅く禁止されていたが、この禁猟地域は江戸を中心としたおよそ一〇里以内の地であった。これは狩猟を行う領主の獲物が少なくなるのを恐れるとともに、鳥獣の乱獲を防いで自然の保護をはかるためであったが、一つには狩猟にことよせ怪しい者が江戸に潜入するのを防止する措置であったともいわれる。

 それでは越谷周辺の古い頃の鳥の生息状況はどのようなものであったろうか。天正十八年(一五九〇)八月関東に入国した徳川家康は、鷹狩りを行いながら民情視察を兼ねて関東各地を巡遊して歩いた。とくに越ヶ谷には慶長九年(一六〇四)、放鷹途次の休泊所として越ヶ谷御殿を設けしばしば宿泊を重ねていたが、慶長十八年十一月には五日間の越ヶ谷御殿滞在中に一日に鶴を一七羽も捕獲したと上機嫌であった。なおこの鶴の肉は祝儀などで用いる吸物として最上の御馳走であったという。当時越谷地域は沼沢地が多く、鶴をはじめ水鳥の生息地として恰好の地であったので、とくに家康は好んで越ヶ谷を訪づれていたのである。しかしこのときは鷹場という特別な地域は設定されておらず、領主が鷹狩りする場所がすなわち鷹場であった。この鷹場が制度化されたのは寛永五年(一六ニ八)のことであり、このときは八条領(現越谷市大成町や相模町を含む)を含んだ江戸からおよそ五里以内の地域が将軍家鷹場に指定され、将軍のほか鑑札を所持した鷹匠頭以外の者の鳥類捕獲はきびしく禁じられた。次いで寛永十年には将軍家鷹場の外側、江戸からおよそ一〇里以内の地に水戸家など徳川御三家の鷹場が設定されたが、このうち武州足立郡木崎領など一三か領が紀伊家の鷹場に与えられている。

 その後五代将軍徳川綱吉の「生類憐み令」にともない、元禄六年(一六九三)徳川御三家などの鷹場は将軍家に返上されたが、同年九月には将軍家の鷹場も廃止となり、鷹部屋に飼われていた鷹は残らず伊豆の新島に解放された。次いで元禄九年には鷹匠や鳥見の役職も廃止され、鷹場制度は事実上廃されたが、その後も旧鷹場内での鳥獣殺生はきびしく取締られた。しかも鳥類保護の施策が打出され、旧鷹場内農民の負担は相変らず重かったようである。

 すなわち元禄九年三月、幕府は越ヶ谷領大間野沼(現大間野町)に丹頂鶴二羽と、七左衛門新田沼(現七左町)に真鶴一羽を放し飼いにしたが、この鶴の番人として地元の農民が数人監視にあたり、昼夜の別なく鶴が他所に飛んでいったときは、その状況と行った先をいちいち役所へ注進(報告)することが命じられている。さらに同十一年になると、この鶴の監視義務はいよいよきびしくなり、御料・私領・寺社領の別なく鶴が飛んでいった先の村では「何日逗留致候共、飛行候共、あるき申候共、御鶴心次第に致し、少しも追い候心得仕らず、村々にておくり申さざる様に仕るべく候」と達せられており、かつ番人をつけて六日目ごとに鶴の様子を江戸小日向台町元御鷹御用屋敷内、寄合番支配岡田甚右衛門宛に注進するよう命じられていた。このほか鳶や雁などが巣をかけたときも、所の農民が巣の番をし、これを寄合番支配衆へ届けでることが義務づけられており、農民にとっては迷惑なことであったに違いない。

 いずれにせよ、当時鶴がまだ越谷に生息していたとは現在とうてい想像できないが、かつては豊かな越谷の自然に鶴が舞い遊んでいたことを思うとき、和やかな楽しい気分になる。それは遠い昔のことでなく今からおよそ二八〇年ほど前のことである。

鶴御成の図(葛飾区史から)