鷹場の復活と野廻り役

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 鷹場制度は五代将軍徳川綱吉による「生類憐み令」によって廃止されたが、享保元年(一七一六)紀州藩主徳川吉宗が江戸城に入って八代将軍を継ぐと、同年八月鷹場制度を復活させ改めて江戸一〇里四方の地を御留場(おとめば=禁猟区)と称して鷹場に定めた。このうち八条領を含む江戸から五里以内の地は通称拳場(こぶしば)と呼ばれた将軍家鷹場、その外側は鷹の訓練場として設定された鷹匠頭支配の捉飼場(とらえかいば)に指定されたが、享保二年六月この捉飼場のうち水戸家など徳川御三家の鷹場に与えられた地域もある。

 当地域では西方・南百など八条領に含まれた地が将軍家鷹場で、その管理者は若年寄直属の公儀鳥見役、七左衛門・四丁野などおよそ出羽地区から荻島・蒲生の一部にかけての地が紀伊家鷹場で、その管理者は在地の有力農民から登用された紀伊家鳥見役、その他の地はすべて鷹匠頭戸田五介支配の捉飼場で、その管理者は幕府から二人扶持を与えられ苗字帯刀を許された同じく在地の有力農民からなる郷鳥見役であったが、この名称は享保三年に野廻り役と改められた。

 野廻り役はこれを世襲した家もあったが、またしばしば交代することもあった。当地域で野廻り役を勤めた家には西新井村の新井栄次、増林村の榎本熊蔵、小林村の会田左源次、松伏村の石川民部、紀伊家鷹場では足立郡大門宿本陣会田平左衛門などが史料のうえから確かめられる。このうち榎本熊蔵は、榎本家「記録」によると、寛政初年(一七八九)から野廻り役を勤めたが、以来御鷹御用で廻村先の鷹匠が榎本家をしばしば訪れていたといわれ、このためとくに越ヶ谷宿から増林に通じる道の千間堀(新方川)に架けられた土橋を「鷹匠橋」と称したという。

 さて野廻り役の職掌は公儀鳥見役に準じたもので、密猟者の監視やその逮捕、鷹場の整備やその監督にあたったが、今でいう警察官的な機能を多分に有していた。たとえば「新井家文書」によると、刈入れのすんだ稲架を片付けずに田の中に放置していた大沢町と大房村の役人は、野廻りからきびしくこれを咎められ早速稲架を取払うよう通告を受けている。つまり鳥の居付きが悪くなるという理由からである。また大林村の耕地で野鳥を捕えるもち縄が発見されたが、これに対し野廻りはもち縄の仕掛人が判明するまで、その耕地の持主を番人をつけて村に預けるという措置を講じている。このほか火災震災時の被害届をはじめ、田舟・飼犬・かかし・家作などの届出を義務づけており、村々から畏怖された存在であった。一方野廻り役にとってもその職分や身分上の事柄で、幕府の処置に不満がなかったわけではない。

 安永七年(一七七八)七月、川越領筋担当の野廻り鈴木友七が鷹場見廻り中密猟人四、五人の集団に襲われ殺害されるという事件が起きた。一件吟味にあたった奉行所では、帯刀を許されているはずの友七が脇差のみを帯びて見廻りしていたことを厳しく咎めた。これに対し参考人として立会っていた同僚は、「山野を駈け廻って鷹場の監視に勤める野廻りは、身軽でなければ御用は勤まらないので脇差を帯びて巡廻している。また密猟人を発見しても一人では犯人を追跡するのが手いっぱいで、村人の応援を頼みに行くこともできない。したがって鷹場で殉職した鈴木友七の例でも知れるように単身の見廻りは危険なので随行者をつけてほしい。それにはその分だけ弁当代がかさむのでご扶持の増額も配慮してほしい。さらに〝野廻り〟の名称は農作物の見廻り人と紛らわしいので、元の通り〝郷鳥見〟の役名に戻してほしい」と反論していた。このほか、参考人として奉行所に呼ばれた際、野廻りは罪人と同じ白洲に着座させられるが、このときは奉行所縁側に着座を許してほしいと訴えている。

 このように村びとから畏怖された野廻りも決して恵まれた職分ではなかったようである。

千間堀に架せられた現在の鷹匠橋