将軍の鹿狩り

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 五代将軍綱吉などを除く江戸時代の歴代将軍は、軍事教練や民情の視察という名目で、鷹狩りをはじめ鶉(うずら)狩り、鹿狩り、猪狩りなどの遊猟に興じていた。このうち鹿狩りや猪狩りは大仕掛けな規模による狩猟だっただけに、そのつど勢子人足が大動員された。ことに享保十年(一七二五)、同十一年、寛政七年(一七九五)、嘉永二年(一八四九)の下総国小金原での鹿狩りは著名なもので、その動員数は一〇万人とも一五万人ともいわれている。

 このほか将軍家鷹場内の豊島郡戸田筋などにおいても、小規模ながら鹿狩りが催されていた。たとえば寛政八年(一七九六)の二月にも、一一代将軍家斉によって戸田筋での鹿狩りが行われている。このときは高一万六七五八石余の埼玉郡八条領(現八潮市全域と草加市の一部、それに越谷市東町・大成町・相模町など)から勢子人足一四二五人、世話役四〇人が動員されている。このうち西方村(現相模町)の勢子人足は一三八人の割当てであったが、世話役を含めるとおよそ西方村の全戸数から一人あて動員された勘定になる。

 この鹿狩りのときの八条領の受持場は荒川通り内間木村と沼影村で、その加勢子人足が一一二八人に世話役三人、中追勢子人足が二八〇人に世話役五人、それに追勢子世話役二四人、このほか松本新田の荒川土手の加勢子人足一七人と世話役八人という割りふりであった。鹿狩り当日は二月十一日と定められたが、事前に世話役一同は戸田の渡し場前に集合を命ぜられ、鳥見方手先から万端の打合せ事項や注意事項が達せられた。

 それによると、当日世話役勢子人足とも腰弁当を持参、それに勢子人足は長さ一丈(約三メートル)ほどの竹を持参すること、追勢子一同は遊馬村の着到場にそろうはずであるが、この辺りは鹿が潜んでいる近くにあたるので万事物静かにすること、当日明け六ツ時(午前六時)鐘を鳴らすのでそれを合図に着到場に出そろうこと、さらに六ツ半時(七時)また鐘を鳴らすのでこのとき定めらた持場についてならぶこと、一同持場についたころを見はからい出役人がほら貝を吹くので、これを合図に静かに鹿追いの行動に出ること、また御場所(将軍のいる場所)の上に麾(き)(指図旗)を立てるが、この麾が上がったときは御場所に向かって進み、麾が下ろされたときはその場に停止すること、万事鹿追いのときは役人の指図によって行動するが、もし鹿を見かけても勝手に声を立てたり走り出したりしないこと、など細部にわたる打合せ事項が達せられていた。

 こうして準備が整えられた鹿狩りの当日は、あいにくの大雨で中止となり、改めて同月十五日の延期が達せられた。このため八条領の勢子人足らは往返三日がかりの予定であったのが、六日がかりの賦役となった。これら勢子の動員に対し、幕府からは人足三日分の御扶持米として八条領には米七七石二斗四升、この代金八八両と永二七四文が支給された。このうち人足一三人を出した西方村には金八両と永二五文が交付された。

 これに対し西方村では、一三六人の勢子人足六日分として延八一六人、一人当たり一日三〇〇文宛ての賃銀で総計銭二四四貫文余の支出となった。このほか、ちょうちん・ろうそく代、惣代寄合席料などすべてで二九六貫文余の村入用費となった。これをかりに銭四貫文を金一両とするとおよそ七四両ほどにあたり、幕府からの扶持代金八両余を差引いてもおよそ金六六両余の負担になった勘定である。つまり将軍の遊猟に動員されたため、村々では多額にわたる余分な出費となったわけである。

 しかしこうした遊猟への動員はしばしばのことではなく、むしろ人びとは大仕掛けな遊びへの参加として「至って面白き事に御座候」とあるとおり、楽しみでこそあれ、決して苦難な課役とは思っていなかったようである。つまり将軍の遊猟は庶民を苦しめるばかりでなく、庶民を楽しませる側面もあったといえよう。

小金原鹿狩りの図(松戸市史から)