水鳥密売人のおとり捜査

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 先ごろ企業間における規模の大きい国際的なおとり捜査が報道されて話題を呼んでいた。話がかわりささいな事件ながら江戸時代起きたおとり捜査の一例を紹介しよう。それは明和三年(一七六六)幸手宿の魚屋次郎右衛門が、野廻りによるおとりの捜査によって水鳥の密売が摘発された一件である。

 当時江戸から一〇里四方は鷹場と称され、特定者以外の鳥猟はもちろん、魚猟・家作・人寄せ興行その他鳥類保護のためのさまざまな制約が付されていた。この鷹場の取締りにあたったのは、江戸五里四方に設定された将軍家鷹場では公儀の鳥見役、江戸より五里四方の外側に設けられた御三家鷹場や、鷹の調練に用いられた鷹匠頭支配の捉飼場(とらえかいば)では、在地の有力農民から選ばれた鳥見役がこれに任ぜられた。このうち捉飼場の鳥見は、はじめ「郷鳥見」と称されたが享保三年(一七一八)から「野廻り」と改められた。

 越谷ならびに越谷周迎でこの野廻りを勤めた家には増林村の榎本熊蔵、西新井村の新井栄次、小林村の会田佐源次、松伏村の石川民部などが記録のうえから確認される。野廻りの任務は公儀鳥見と同じく密猟者の監視をはじめ鷹場法度に示された規則の違反者摘発や、鷹場の整備にあたるなど警察的な役職を行使、幕府から苗字帯刀御免二人扶持を給された。またこの鷹場取締り布達のなかには、鳥類の売買は定められた水鳥問屋、岡鳥問屋を通して行うこと、しかも鷹場外で捕獲された鳥類であることを証明する極印が押されているものに限ること、という条項が示されていた。

 こうしたなかで明和三年の野廻りによるおとり捜査が実施された。ことの次第は幸手地域担当の野廻りが、幸手宿魚屋次郎右衛門方での鳥類密売を察知したことにはじまる。この野廻りは幸手領担当以外の野廻りにも応援を頼み、一同評議のうえ、密売の証拠をつかむため、次郎右衛門とは一切面識のない野廻りが客を装って鳥を買い求めるおとり捜査を行うことをきめた。こうして客を装った野廻りは次郎右衛門宅を訪づれ、世聞話の末病人に食べさせるので何とか雁が手に入らないかと相談を持ちかけた。次郎右衛門は、はじめはこの相談に応じなかったが、ついに野廻りを信用し、真雁一羽を銅銭三七二文で野廻りに売り渡した。待機していた外の野廻りはこの機を逸せず現行犯で治郎右衛門を逮捕し、家宅捜査のうえ数羽の水鳥を押収し、一件を鷹匠頭戸田五助役所に訴え出た。

 これに対し鷹匠頭戸田五助は、捉飼場内で水鳥商売をする者は、必ず極印を押した水鳥を指定された水鳥問屋から仕入れること、ただし鷹場以外の地から無印の鳥を自家用として少々宛買うのは差支えない。しかし他人から頼まれて取り次いだりする行為はいけないとの趣旨による廻文を野廻りに達していた。この治郎右衛門の水鳥販売一件に対する処置は不明ながら、おそらくこの廻文から察して次郎右衛門が所持した水鳥は、鷹場外から自家用として求めたものとみなされ、お科めはうけなかったともみられる。

 ちなみに当時の武士は人を欺すということを恥としており、たとえ職務に忠実であったとはいえ、行き過ぎた野廻りによるおとり捜査を戸田五助は心よく思わなかったに違いない。

 なお野廻りや鳥見が摘発した鷹場に関する犯罪人は奉行所に引渡されて吟味されたが、なかには本人や家族のことを考慮して奉行所にこれを届けず、その村の地頭(旗本)所役人にその身柄を引渡し内済ですませることもあった。身柄を預かった地頭所ではこの犯罪人に罰金を課すなど相応な罰を加えたのはもちろんである。

幸手の町並み