蒲生の一里塚

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 慶長五年(一六〇〇)関ケ原戦の勝利で天下を掌握した徳川家康は、翌六年東海道に、同七年には中山道や奥州道(後の日光街道)に伝馬制を布いた。天下を統率するには江戸を中心とした主な街道を徳川氏がおさえる必要があったからである。これら街道は江戸時代を通じて五街道と称され幕府(慶長八年江戸に幕府が開かれた)の直轄に置かれ、幕府の費用で整備が進められた。慶長十七年にも幕府は街道の修築を施工していたが、このとき奥州道には大番組頭大沢基雄が道路奉行として越ヶ谷に派遣されていた。

 また幕府は慶長九年各街道一里ごとに塚を設けることを命じたが、家康はそこに榎を植えるよう達したとも伝える。各街道にはこの制にもとづき塚が築かれていった。これを一里塚という。

 江戸日本橋を起点に千住宿を第一次とした日光街道のうち、第三次の駅場である越ヶ谷宿は日本橋から六里八丁(約二四・四キロ)にあたる。したがって江戸から越ヶ谷間には五か所の一里塚があったことになる。このうち越谷近辺の一里塚をみると、草加の吉笹原村、蒲生村、下間久里村、備後村(現春日部市)に各一カ所設けられていた。

 ちなみに文化年間(一八〇四~一八)幕府の編さんになる「五街道分間絵図」は、街道にそった家や並木の数を正確に画き、さらに家の屋根が瓦葺か草葺かまで色分けされているもので、その資料的価値はきわめて高いと評価されている。この分間絵図によると、当時蒲生の一里塚は日光街道をはさんで両側に設けられていたが、このうち日光に向かって右側にあたる出羽堀にそった一里塚には「武州足立郡・埼玉郡の境、蒲生村字大橋土橋(現蒲生大橋)」とあり、その大橋のたもとに小高い丘が画かれ、「石地蔵・愛宕」と記されている。

 また文政五年(一八二二)の調査になる『新編武蔵風土記稿』蒲生の項には「下茶屋ここに一里塚あり、塚上に杉樹を植え傍に愛宕社あり」と記されている。現在この蒲生一里塚のうち綾瀬川べりのものは民家の庭となっていて不明であるが、出羽堀べりの一里塚は、築山のくずれから一部石垣で補修されているものの、分間絵図と全く同じ状態で残されている。明治以降耕地整理や道路の改修拡幅などで、一里塚のほとんどは撤去されたり撤廃されて、今のところ確認されているのは日光御成街道を中心に埼玉県全域で六か所ほどにすぎなく、いずれも県の文化財に指定されている。しかしこのなかには千住から栗橋間の日光街道には一基も含まれていない。こうしたなかで蒲生の一里塚が昔のままで残されていたのはなぜであろう。

 かつて、昭和初期の世界恐慌で、農村の疲弊は極度に達したが、政府はこれに対処し、昭和七年農村賑救事業の一環として、千住の茶釜橋から日光街道の拡幅工事が施工された。このとき人家の密集地を避けて新道が造成されたが、幸に蒲生は草加宿と越ヶ谷宿の間の立場(休けい所)として古くから街道ぞいに人家がつらなっていたため、草加杉並木先から蒲生清蔵院先までの日光道が残され、旧道に平行して水田地に新道が造成された。しかもこの旧道地域は都市化が及んでいなかったため、蒲生の一里塚は江戸時代のままの姿で残されていたとみられる。

 埼玉県内の日光街道では唯一とみられるこの一里塚は昔を考えるうえの文化遺産として貴重なものであり、その保存措置が講じられようとしている。

蒲生の一里塚