浅間神社と越谷

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 江戸幕府が編さんした武蔵国の地誌『新編武蔵風土記稿』には、当時越谷の大竹・大沢・越ヶ谷・東方(現大成町)・増林・平方に浅間社が祀られてあると記載されている。浅間社(仙元社)が勧請されるようになったのは、富士信仰が広まった平安時代からと伝えるが、武蔵国足立郡や埼玉郡地域に浅間社が祀られたのは南北朝期から戦国期(一三三一~一八九〇)にかけてのことといわれる。

 江戸時代に入っても浅間信仰は盛んであったが、とくに享保十八年(一七三三)富士信仰の行者伊藤食行が富士山頂烏帽子岩で行った富士禅定(生きながら土中に埋められること)が世人に強烈な感銘をあたえ、同時に熱狂的な富士信仰の信者によって富士講(不二講)が組織され、各地に富士塚が築かれて多くの浅間社が勧請された。

 ところで越谷地域の浅間社の多くはその勧請の紀年などを伝えないが、このなかで大沢の浅間社が興味ある由緒を伝えている。すなわち大沢浅間社の創建は、今からおよそ九五〇年前の長元三年(一〇三〇)下総国葛飾郡西川辺の住人深野源三郎が富士山に登拝したとき、富士山大沢の滝から五彩の光をはなっていた影向石を持ち帰り、西河辺の地を流れる荒川(後の元荒川)の砂丘上に祠を建てて祀ったのが浅間宮のはじめで、一説によるとこのときからこの地を富士山大沢の名をとって大沢と呼ぶようになったともいう。

 その後永久二年(一一一四)深野氏は、この浅間宮を大沢の修験(山伏)真蔵院の蔦野浄賢に寄進、以来真蔵院が代々別当として浅間宮の仕守りを勤めた。真蔵院はこれを機会に大沢・大房・大林・大柴(後の大吉)・大里・沼谷新田(後の弥十郎)・蒔里(間久里)の七か村を勧化して廻り、浅間宮に神碑を造立して七か村の鎮守にしたと伝える。また大沢町の地誌「大沢町古馬筥」によると、大沢町の浅間宮は江戸時代社地として一反三畝歩(約一五アール)の地が除地(年貢を取られない土地)にされたが、享保十一年(一七二六)の調査では浅間社の宮殿は間口七尺(二・六メートル)奥行き九尺(三・五メートル)の社であったとある。

 さらにこのあたりは通称浅間山と称され松の古木が生い茂った荘厳な霊地であったが、天保年間(一八三〇~四四)別当真蔵院が本堂再建にあたり、その資金調達のため浅間社の松の古木をことごとく売り払った。これを知った大沢町の住民が伐り残された古木を買い求め、改めてこれを浅間宮に寄進し、浅間の霊地を保たせたという。その後明治維新期の神仏分離令によって、浅間社は真蔵院から独立し町内の鎮守として仕守りされたが、明治四十二年大沢町の鎮守香取神社に合祀された。

 このため町内の仕守りの手を離れた浅間社の宮殿や境内地は荒れるにまかせられたが、明治四十五年大沢町の住人荒井氏(江戸屋)の叔父東京在住の武田氏(元越谷駅前原鉄運送店の主人)がこれをみるにしのびず、浅間社地を買い取ってこれを整備し、山正園と名づけて優佳な庭園とした。大正五年この山正園を訪ずれた大町桂月は「松の並木あり、小亭あり、池あり、丘の上に浅間の祠あり」とこの庭園の美しさを賞している。その後浅間社は荒井氏の所有となり荒井氏によって仕守りが続けられたが、最近浅間宮は荒井氏の家にうつされ、その跡地にマンションが建てられた。将来このビルの屋上に浅間宮が祀られるはずだともいう。

 また越ヶ谷中町の浅間社はその創建の紀年を伝えないが、中世の紀年が記された奉納の懸仏が残されている。表面に富士山をかたどった銅板が張られた丸い板で、裏面には「富士山内院御正躰」「本書応永三十三年(一四二六)六月一日、干時文明八年(一四七六)六月一日、別当中納言阿闍梨良清」と記されており、古くからの社であったのが確かめられる。この中町の鎮守浅間神社の祭礼は現在六月三十日が宵宮、七月一日が山開きといい盛大な祭りが執行されているが、このとき「初山のぼり」と称し、赤子を参詣させる慣例となっている。

改築前の越ヶ谷中町浅間神社