大相模の不動尊

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 津田大浄の著書「遊歴雑記」のなかから、しばしば越谷の桃林などの越谷関係記事を引用してこれを市史編さんだよりに紹介してきた。この書の著者津田大浄は諱を敬順または宗知ともいい十方庵と号したが、江戸小日向の浄土真宗廓然寺の住職であった。文化八年(一八一一)五一歳のとき住職をその子大恵に譲って花鳥風月の生活に入り、筆紙と茶具を携えて江戸近郊の遊歴を重ね、その紀行文を遊歴雑記と名付けて五編の書にまとめた。今回はこのなかから、文化十一年の記事とみられる大相模の不動尊(現相模町)を紹介してみよう。

 大相模大聖寺の不動尊は、草加の駅から北東二里ほどの所にある。その路すじは加茂(蒲生)とかいえる立場(街道の休息場)から右の畑道を入って一里ほどである。この道すがら春は梅や桃・椿・桜・梨・れんげ・杏の花の色が美しく、楓の新芽にいたるまで自然の暖かさを感じさせる。また夏は杜若(やぶみょうが)・杜鵑花(さつき)・とらの尾(しだ)・なでしこ、それに所々でみかける蓮池に紅白の蓮花が咲く風情がことによい。さらに秋の末には道の両側に広がる綿畑の、風にそよぐ綿花の眺めはとくに風情のあるものである。

  花に吹 風までぬくし わたばたけ

 かくて大相模に入ると、道には敷石がしかれ、両側に町家に似た農家が軒をつらねているが、大聖寺の門前まではおよそ四、五町(約五〇〇メートル)ほども続いている。その門前には山内の竹木伐り取るべからずなどと認められた寛保四年(一七四四)の制札が建てられている。境内は甚だ広く、南側の仁王門から向かって不動堂まではおよそ二町(約二〇〇メートル)ほど、起伏のない平坦な境内であるが、門の外からみたところ下総成田山よりは、はるかにまさっている。ただ惜しいことに加茂から一里、越ヶ谷からは二〇町もあって遠く、二十八日の縁日以外にはその参詣客も少ないようである。

 入口の仁王門は南向きで棟高く、その彫物は技巧をつくしている。とりわけ右の角から二本目の柱の上に彫刻されている牡丹をくわえた獅子の彫物は、いかなる番匠(大工)の作品によるものか、立派なものである。門の上に真大山と記された竪額が掲げられているが、その筆者の名や印がないのは残念である(実は松平定信筆)。仁王門をくぐって矢大臣門(今はない)までおよそ一町ほど、左の方は僧坊(寺の建物)が甍(いらか)をつらねているが、その塀の内側には出店の茶屋が床几(しようぎ)をならべており、右の方は尼店とかいう店が庇をおろして小間物類などを商っている。

 矢大臣門の近くの右手に垢離場(こりば)があるが、この辺りから境内は末広がりに奥深く広がっている。矢大臣門の大きさは東西五間余(約九メートル)南北二間ほど、これより不動尊まで二〇間余もあろうか、右手に鐘撞堂、それに料理屋が五、六軒ほど並び、左手には天神地祇など、もろもろの小社が祀られている。また不動堂の北方に越ヶ谷に通じる裏門があり、その東方にも築比地などに通じる裏門があるが、これらの門前にも旅籠屋や商家が軒をならべている。

 さて、不動堂の周囲には庇がつけられた八間四方の勾欄(廊下につけられたらんかん)がつけられ、雨の日でも参詣人は足や衣服を濡らさず参拝できるように作られているのは、成田の不動堂と変りはない。本堂正面の御厨子(ずし)には、寺院の紋章が高彫りされており、その内陣は荘厳のきわみである。また本堂の周囲には男や女の髻(たぶさ)が数多く納められており、その不動信仰の深さが思い知らされる。さらに堂内には文禄・慶長・元和・寛永年間の奉納になる絵馬なども掲げられており、古くからの名の知れた真言道場であったことを偲ばせている。

 かの成田の不動は中古からふと繁昌をみた不動で、堀田相模守から高五〇石の寺領を頂戴したが、この大相模の不動は相州大山の根本で、徳川家康より六〇石の朱印地を賜わっている。

 大相模不動を訪れた津田大浄は、大相模不動につき以上のようなことを述べている。火災に遭い境内も狭ばまった現在の大聖寺と比較して興味ある記事といえよう。

大聖寺境内図(『新編武蔵風土記稿』から)