越ヶ谷宿の住民動態

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 さきに宿場の住民は、街道に面した屋敷地(表屋敷ともいう)を所持していることが条件で、その間口の大小によって伝馬屋敷(一軒役とも)歩行屋敷(半軒役とも)とに分かれていたと述べた。もちろん伝馬屋敷は輸送用の馬を、歩行屋敷は人足を負担することになっていたが、その負担割合は歩行屋敷が伝馬屋敷の二分の一で半役とも呼ばれた。この両屋敷の数は無制限ではなく、江戸時代を通じ多少の変動があったものの、大沢町では両役合わせておよそ七五軒半、越ヶ谷町では一三一軒半の株立てで固定されていたが、この屋敷株を所持したものが一人前の宿民で、伝馬百姓とも称された。

 その他は地借・店借という身分的にも一段低い住民で町政にも参与できない人びとであった。これら地借店借層は表屋敷を借り旅籠屋その他の商売を営んだり、裏店を借りて馬士や人足稼ぎなどしていたが、伝馬百姓と地借・店借との比率は時代が下がるにつれ大きな差をみせるようになった。たとえば寛延三年(一七五〇)三月の大沢町総戸数は三八三軒を数えたが、このうち百姓は六三軒、地借は三〇軒、店借二六二軒、寺院三軒、山伏六人、店借道心者六人という住民構成であった。また越ヶ谷町天保十四年(一八四三)の例でみると、当時越ヶ谷の総戸数五四二軒のうち百姓が一二五軒、地借・店借が四一二軒で約八〇%が地借店借層によって占められていた。

 このうち百姓のなかでも古来からの地付百姓は数少なく、長期間には大きな変動があったようである。しかも時代が下がるにつれ三株、四株というように複数の屋敷株を所有する人が現われる反面、屋敷一株の二分一、三分一というように細分されたかたちで所有されることも多くなった。文化年間(一八〇四~)から文政の初年にかけて、越ヶ谷宿本陣福井猷貞によって編さんされた地誌「大沢猫の爪」ならびに「越ヶ谷瓜の蔓」によると、「元禄八御検地名所受の百姓九分通り退転仕り候」とあるように、元禄八年(一六九五)の検地で土地台帳に記載された百姓の九分通りは他の地に移転したという。

 早くから貨幣経済の渦中に置かれていた宿場では、自給自足を原則とした農村と異なり、商業経営の破綻から古くからの地付百姓が没落していく反面、新興の地借店借層が百姓株を買い取ってこれにかわるなど、新旧の交代は特に激しかったようである。

 次にその動態の一端を同地誌によってみると「扇屋平右衛門は旧家なり、今退転、先祖平右衛(中略)等元禄度御検地之節定使代り相勤竿先相働申候ニ付、宿役人所持之外右三人之者ハ御縄延頂戴罷在候家々の者、今は不残無名ニ相成歎敷候」、「石井伝兵衛先祖之義、永禄天正の頃より当町居住之旧家ニて、石井党の本家内野伝兵衛と申、寛政年中無名に相成申候」などとあって旧家の没落を述べている。

 この反面新興の屋敷持百姓としては、たとえば紺屋白石兵蔵は幸手の在から大沢町の吉田家に奉公稼ぎに出ていたが、のち屋敷株を取得して独立した。その妻おつるは評判の稼人で世俗にこれをおつる紺屋と称したという。また野沢茂兵衛ははじめ西光院長屋で車力稼ぎをしていたが、のち表屋敷に移って旅籠屋渡世をはじめ、享和年間(一八〇一~〇四)には屋敷株を取得して一人前の百姓になったなどとある。

 このように宿場住民の変動は激しかったが、このうち江戸時代に退転した主な旧家をあげると、もと越ヶ谷郷の開発領主仲町名主問屋会田出羽家、当初から本陣問屋名主三役兼帯勤めの本町会田八右衛門家、越ヶ谷御殿の御殿番を勤めていた本町の浜野藤右衛門、同じく小杉藤左衛門の両家、大沢町の元町人役深野所左衛門、同じく内藤六兵衛両家など、越ヶ谷宿創草期の有力者が数多くみられる。

 こうしたなかで、江戸時代を通じ大沢町の世襲名主問屋として最後まで強力な基盤を保っていた江沢太郎兵衛家(明治期に退転)などは珍しい例といえよう。

無縁仏群(越ヶ谷天獄寺)