日光道中の貫目改所

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 自動車積荷の重量は道路交通法で規制され、これに違反した車輛がしばしば取締りを受けているのは周知のことだが、江戸時代も人馬が運送する荷の重量はそれなりに定められていた。

 慶長七年(一六〇二)諸街道に伝馬制が施行されたとき、徳川氏は御朱印・御証文などによる無賃の伝馬荷は三二貫目(一二〇キログラム)まで、有料の駄賃荷は四〇貫目(一五〇キログラム)までと定めたが、元和二年(一六一六)には伝馬荷も四〇貫目に改められた。さらに万治元年(一六五八)には人足が運ぶ荷物は五貫目(約一九キログラム)までと規定され、本馬・軽尻(人が乗った馬)、人足などの重量や賃銭も定められた。

 しかし人馬の使用者は、幕府が定めた御定賃銭(公定運賃)の使用数量が制限されていたので、できるだけ多くの荷物を定められた人馬数で運ばせようとして、その重量を超過させたり、あるいは不法な手段を講じてこれを継ぎ送らせることが多かった。お定めの人馬数を超過した分は、相対(あいたい)賃銭と称し、幕府の許可を得られない一般の人びとと同様な、高い運賃を払わなければならなかったからである。

 これに対し幕府は宝永四年(一七〇七)東海道・中山道・日光道の宿場に宿手代を常駐させ、これら不法積荷などの監視にあたらせたが、あまり効果がなかったため、正徳二年(一七一二)宿手代を廃止し、道中奉行の配下を宿々に派遣して道中取締りの強化をはかった。同時に品川・板橋など東海道や中山道の五ヶ宿に貫目改所を設置し、過積(重量超過)荷物の取締りにあたらせたが、寛保三年(一七四三)には日光道中千住宿と宇都宮にも貫目改所が設けられた。

 ところがこの貫目改所の積荷の取締りはかならずしも効果をあげていたとはいえなかったようである。取締りの対象になった荷は、いずれも大名や公家・門跡など、特権的な人びとの荷であったからである。大沢町の越ヶ谷宿本陣福井家文書文政四年(一八二一)の書上げによると、「貫目改所を通過する荷物は、荷物積送り駄賃帳にその重量を記載し、検査したという割判を押して継送る定めであったが、千住宿貫目改所を通過する荷の多くは駄賃帳をつけないで継送ってくる。これらは駄賃帳を付してくる荷物もあるが、これとても駄賃帳には四〇貫と記されているものの、はかってみると四六、七貫目の重量であるのが普通である。また三〇貫目の長持は六人持ちと定められているのに、駄賃帳には四人と記されているなど、不法な記載が多い。

 不審に思って隣草加宿問屋に問い合せてみるが、草加宿役人からは納得のゆく返答は得られない。これは草加宿の人馬や助郷が、平常駄賃稼ぎや人足稼ぎなどでなにかと便宜をはかってもらっているので、過貫目や不法荷の継送りを知りながら黙って見すごしているのである。一方貫目改所が設けられている千住宿では、日光道を利用して荷物を輸送する諸大名から、例年少なくとも金二〇〇両余の付け届け(謝礼)を受けているので不法な継送りを黙認しているのである。

 さらに、〝袖の下の掛合〟と称し、宿役人はもちろん馬士・人足に到るまで、大名などの荷主からそのつどみのがし料としての祝儀金を頂戴しているが、この祝儀金も年間五、六百両にも及んでいる。こうしてこれら付け届けや祝儀金による千住宿役得金の総額は、年間では金三〇〇〇両余に及ぶとみられ、これが千住宿の大きな助成になっていると聞いている。

 多少のことは仕方ないが、ますます目に余る事態となっており、道中宿々ではことのほか難儀迷惑を蒙っている。したがって貫目改所そのものを厳しく取締ってほしい」

とこれを訴えている。しかし幕府は不法荷の相手が大名などの貴人であっただけに、これを徹底的に取締ることはできなかったであろう。いずれにせよ監督取締りの立場にある公的役所が、逆に腐敗の温床になっていたことは、現在と対比してみても興味深いことである。

宿場の問屋場