越ヶ谷宿の御用旅籠

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 越ヶ谷町の助合宿として成立した大沢町は、行政的にはまったく別個な自治村落で、はじめは伝馬業務も独立した問屋場(駅の役所)を持ち、越ヶ谷町と一日交代で勤めていたが、両町独立した形では申送りなどの点で差支えが多く、その業務に支障が多かったため、自治行政のうち伝馬や休泊に関する宿場の機能を合体させ、両町一体となって交通業務を遂行することになった。これを「打込め勤め」といい、当番にあたった両町の問屋(駅長)・年寄(問屋の補佐役)が席を同じくし、両町の問屋場を一〇日交代で開いてその業務を担当した。

 したがって江戸時代越ヶ谷宿と呼んだときは両町を指したもので、交通関係の書類には越ヶ谷宿のうち越ヶ谷町、越ヶ谷宿のうち大沢町と使い分けられた。もっとも幕府による宿駅制度が廃止された明治初年から、越ヶ谷町では明治二十二年の町村制までなおも越ヶ谷宿と称していたが、この段階での越ヶ谷宿とは越ヶ谷町だけを指したものである。

 しかし江戸時代の宿場機能は、むしろ越ヶ谷町より大沢町にあったといって過言ではない。すなわち旅人の休泊に供する旅籠や茶屋のほとんどは大沢町に軒をならべていた。天保十四年(一八四二)の調査になる「宿村大概帳」によると、当時越ヶ谷宿には本陣(貴人の休泊に供す宿屋)脇本陣を含めて旅籠屋が五七軒を数えたが、このうち実に四八軒が大沢町に集中していた。

 ちなみに宝暦年間(一七五一~六四)における越ヶ谷宿本陣会田八右衛門家(安永三年没落退転)付属の御用旅籠のうち、大沢町の御用宿には、桔梗屋(多々良)・大松屋(福井、のちの本陣)・庄内屋(深野)・柏屋(大垣)・橘屋(広瀬)・小和屋(吉田)・下妻屋(松沢)・槌屋(深野)・玉屋(深野)・虎屋(山崎)・蔦屋(川上)・若松屋(疋野)・稲葉屋(疋野)・富士屋(内藤)・佐野屋(内藤)・大塚屋(吉田)・江戸屋(荒井)・山屋(深野)このほか富吉屋・鶴屋・茗荷屋・木香屋などの旅籠が名を連ねていた。

 もともと幕府が設定した宿場のなかで営業しようとする旅籠は、その理由を問わず公用旅行者の休泊が義務づけられて御用旅籠と称されたが、その公用旅行者の休泊料金は、幕府が定めた低廉な公定料金で賄われた。このため旅籠屋経営に支障があったときなどは割当てられた公用旅行者の休泊を拒否する旅籠屋もあり、当面の責任者である宿役人と争論になることもあった。

 文化十三年(一八一六)三月、元荒川の対岸四町野村からの飛火で大沢町は一九八軒焼失の大火になったが、このとき旅籠や茶屋のほとんどが焼失するという宿場機能の壊滅的な打撃を受けた。このため伝馬業務は越ヶ谷町の問屋場が一手に引請けて処理したが。御用宿は越ヶ谷宿では処理できず、粕壁・草加の前後両宿に振替えを願い、旅行者の混乱を防止する始末であった。その後幕府からの拝借金などで大沢町の復興が進み、同年十月頃から少しずっ御用宿を勤めることができるようになった。

 こうしたなかでいち早く家宅を新築し営業をはじめた槌屋所左衛門は、利益のある一般人の旅行者を盛んに止宿させたが、御用宿を割当てると旅人逗留(とうりよう)の者がいて部屋があかないとか、家内に病人があって差支えるなどと申し立て、御用宿を勤めようとしなかった。この所左衛門の我儘に怒った宿役人は翌文化十四年四月、支配大貫次右衛門役所に所左衛門の不埓を訴えでた。このときは扱人が立入り所左衛門が宿役人に詫書を入れることで示談になったが、その後も所左衛門は前々からの御用割当て分を消化しようとしなかった。そこで再び訴訟沙汰に発展したが、これには多分に所左衛門と宿役人との間に感情のもつれがあったようである。

 いずれにせよ所左衛門は宿場で旅籠屋を経営する以上、御用宿の拒否は処罰にあたいしたが、休泊に支障をきたすのを何よりも恐れた幕府役人の斡旋で、このときも示談内済にこぎつけた。しかし当時はいかなる理由にせよ、その我儘は許されなかったのである。

大沢町の旅籠屋(「商家高名録から」)