越谷周辺の俳人たち(葛飾蕉門)(かつしかしようもん)

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 越谷は江戸時代から俳偕の盛んな地で、越ヶ谷吾山をはじめ幾多の名のある俳人がでている。このうち、今回はとくに当地域に影響が大きかった葛飾蕉門の「分脈系図」から、当地域の俳人を抜いてみよう。

 葛飾蕉門の祖は申斐国の処士山口官兵衛で「素堂」と称したが、江戸に出て葛飾に居住、芭蕉とも親交を重ね、芭蕉流の俳偕を葛飾を中心とした地域の庶民に広めた。したがってこの流れを葛飾蕉門、略して葛門と称される。この葛門の第二世は小十人組の幕臣長谷川半左衛門で「馬光」を称したが、のち「素丸」を称した。これが素丸の祖である。

 第三世は五〇〇石の旗本溝口十太夫勝昌で、その師「馬光」から「素丸」の号をゆずられた。第四世は加藤宇右衛門勝照といい「野逸」を号とした。第五世は関根三右衛門昭房といい溝口素丸の弟子で「白芹」と号した。第六世は鹿窪十郎兵衛といい「南台」と号した。その後七世・八世と続くが、この間葛門の門下で判者や老俳などの格が許された越谷の俳人たちには、両儀庵「泰賀」を号し文政十一年(一八二八)に判者に昇った七左衛門村正福寺の住職がみられる。

 また「白扇」を号し、天保九年(一八三八)に判者を許された西新井村の世襲名主斎藤徳三郎がいる。建碑年代は不明ながら西新井西教院の墓地に、芭蕉の句を刻んだ碑が建てられている。この芭蕉句碑の裏面には〝たいらなり 初曙の昇汐 白扇〟とあるので、これはあきらかに斎藤徳三郎の建碑になるものとわかる。同じく判者に列せられた俳人には、袋山村の世襲名主細沼吉左衛門がいる。吉左衛門は「脩栄」を号したが、天保十一年(一八四〇)その子細沼廉陰が俳句連の碑を袋山の久伊豆神社境内に建立している。これには脩栄の〝峯いくつ 越てのぼるや 富士の峯〟同じく袋山の住人で判者に列した「宗銘」の〝ゆう風の 戦(そよ)ぎ見たるや 合歓(ねむ)の花〟の句などが刻まれている。

 このほか「呑酔」を号し弘化四年(一八四七)に判者に進んだ鈴木綱右衛門は大道村の住人で、ここからは老俳に列した「白枝」「文瓊」などの俳人がでている。長島村にも「榎松」を号し弘化四年老俳に列した原田新八がみられるが、ほかに「〓〈檀の右下部分が且〉雪」「松課」などの俳人がでている。谷中村にも「松渓」を号した関根岩之丞や「昇月」を号した鈴木善次郎、ほかに「杏斎」を号した俳人などがでている。増林にも「圃遊」を号した俳人が名をつらねている。

 また越谷以外では現松伏町の赤岩の住人で「法雨」を号した山崎与惣兵衛が著名な俳人で、法雨は松伏領と新方領の葛門の祖ともいわれており、その没年は文化八年(一八一一)である。同じく大川戸の小林茂吉ははじめ「序跋」を号し寛政四年(一七九二)判者に列したが、その師溝口素丸から「素丸」の号を許され、「葛飾素丸」と号した。おそらく松伏町の古利根川に架けられた寿橋のふもとに建てられている〝水おほろ 橋はから絵の 人通り 素丸〟とある句碑はこの葛飾素丸の句であろう。

 このほか大川戸には「百丸」を号した吉田長右衛門、「藍水」を号した川辺藤助、「鼠夕」を号した増田与兵衛などの名がみられる。春日部では寛政十年(一七九八)に判者に進んだ大畑村の「文龍」、「起笑」を号した大場村の上原安五郎、「吟路」を号した大畑村の海老原左平太、「素月」を号した内牧村の南蔵院式部、「敬林」を号した備後村の関根宗七、「楽山」を号した中野村の神職多賀出雲、などの俳人がみられる。岩槻では「蘭陵」を号した長宮村の金子三右衛門、「木淵」を号した鈎上新田の会田源蔵、「笑山」を号した末田村の葉山卯之助、「素泉」を号した尾ヶ崎新田の真間田安五郎、「一力」を号した〓〈釣の右半分を匂〉上村の大塚亀蔵など。

 川口では「谷水」を号した戸塚村の谷田次郎左衛門、「素足」を号した藤八新田の中山政右衛門、「野月」を号した戸塚村の米野粂次郎、などなどの名が見られる。これらの人びとが、江戸時代葛飾蕉門の流れを汲み越谷周辺で活躍した俳人たちであった。

古利根川寿橋ふもとに建てられている葛飾素丸の句碑