寺院と正月

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 江戸時代の村びとは、寺担(正しくは〓〈檀の右下部分が且〉)制度と称され、一定の寺院の担家でなければならなかった。そして宗門人別帳(現在の戸籍帳)や嫁・聟・養子などでの戸籍移動(人別送り)あるいは旅行(関所手形)移転・奉公・誕生・死亡など人別にかかわることはいずれも担那寺の証明印を必要とした。つまり寺は、今でいう戸籍係りという行政面での一分野をになっていたので、村びとと寺院との関係はとくに密接なものがあった。

 また寺院も本寺、末寺という支配関係で固く結びつけられており、たとえば境内の樹木を伐採するにも本寺に届け出るなど、寺院単独によるわがままな行動は許されない仕組になっていた。しかも村びとが連座制の責任単位として五人組に組織されていたように各寺院にも組寺と称し、寺院どうしが組合わされて本寺との連携が保たれる仕組になっていた。こうした上下のきびしい掟にしばられていた寺院の立場や、村びとと寺院の関係についてはいずれ述べたいが、今回は寺院の正月について平方村の浄土宗林西寺と瓦曾根村の真言宗照蓮院の記録からこれをうかがってみよう。

 まず平方の林西寺では十二月二十五日に門前百姓や近所の百姓の手伝いで餅つきをはじめ盛砂・松飾など正月の準備をすませる。やがて一月元日百八ツの除夜の鐘をつき七ツ時(午前四時)に総員起床、本堂諸堂で新年の勤行(ごんぎよう)をすませ、雑煮を供養後、一同住職に年頭の祝儀を申し上げる。この頃から担家をはじめ信者たちが年頭の御礼に訪れるが、多いときで二〇〇人からの客が帳場に備えつけの帳簿に記帳した。このときは住職が帳場に出座して挨拶を受ける例になっていた。

 二日には「御庫裡下り」といって、村役人はじめ村内の末寺や重立った担家の者を招き、馳走する慣(なら)わしであったが、そのときにより二〇人から三〇人ほどが集まり、およそ夜五ツ半(午後九時)ごろまで饗応を受けた。四日から五日にかけては人足を雇い、手分けして村内をはじめ粕壁や一ノ割、藤塚などの担家廻りに出向した。このときの進物は前日に準備して長持に入れておくが、この長持を人足がかついで使僧のお供をした。雪や雨のときは道がぬかり、遠路の道中は難儀であった、とある。

 九日は林西寺開山僧の開山忌で月次(つきなみ)念仏が執行されたが、参詣者は常時一七、八人、多いときで三〇人ほどであった。十一日は平方村上組鹿島社その他各組鎮守の産社祭りであったが、依頼により各鎮守へ使僧をつかわす例であった。当時は神仏混合で寺院の僧が神宮を兼ねるのが普通のことであったのである。二十四日は御忌法要で林西寺末寺一〇か寺惣出勤、村役人と近所の者も残らず出席することになっていた。

 また真言宗瓦曾根村の照蓮院では、林西寺と同じく十二月二十五日に餅をつき、松飾などを飾りつけるなど正月の準備をした。一月一日の諸行事は林西寺とほぼ同様であったが、照蓮院ではこの日、年始に訪れる客にはきんぴら牛蒡(ごぼう)と坐禅豆を入れた重箱を出し、茶呑茶碗に冷酒をついでもてなす慣わしであった。二日には担家惣代瓦曾根村名主彦左衛門が年始に訪れ、青銅二〇〇疋を年礼の挨拶に納める例であった。

 四日には住職が村内や他村の担家廻りに出向する。このときは門前の百姓四人のほか、雇人二人と子供二人計八人が進物配りとして住職のお供をするが、まず中村彦左衛門家の訪問から始められる例であった。十八日には照蓮院と隣り合わせの最勝院(現観音堂)で観音護摩修業が盛大に執行されたが、とくに正月の護摩修業のときは瓦曾根河岸の船持仲間が集まって船中安全を祈願する慣わしであった。また二十一日は弘法大師の画像に供物をして祈願する初御影供(ほつみえいく)が執行されたが、このときは末寺や村役人それに門前百姓は全員出席することになっていた。

 以上簡単に寺院の正月をみてきたが、当時は初詣といって、神社に参拝するなどの風習は少なく、新年の挨拶として担那寺に詣でるのが一般的であったようである。

瓦曾根照蓮院