渡辺源太左衛門之望(ゆきもち)

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 漢学者であり国学者であった渡辺荒陽は、武州埼玉郡新方領恩間村(現越谷市大袋地区恩間)の渡辺左介宜直の長子として宝暦二年(一七五二)二月の生まれ、政之助之望(ゆきもち)と称した。もともと渡辺家は中世来の土豪の系譜を引く旧家で、江戸時代を通じ恩間村の世襲名主を勤めた家柄である。

 なお、恩間村は村高五〇〇余石の村で、はじめは幕府領であったが、寛永三年(一六二六)から岩槻城主阿部家の領地に組入れられた。以来、大竹・三野宮・大道などの各村ともに岩槻藩の城付村であった。慶安年間(一六四八~五二)之望の先祖佐介観照は、岩槻城主の許可を得て恩間新田二〇余町歩の開発を進め、その褒賞(ほうしよう)として三町歩の免税地を城主から与えられたという。

 さて之望は、若い頃から戸ヶ崎知道軒輝芳から剣術を、太田小膳から槍術を、河保寿から書を学び、かたわら俳諧をたしなむなど文武の道を志していた。やがて之望二〇歳の頃、粕壁宿の名主関根治郎兵衛の娘とえを妻とし、二男三女をもうけたが、家業よりもむしろ儒学を中心に文芸の修業を望んでいたようであり、寛政元年(一七八九)妻とえが三五歳で没したのを機会に家をその子太珉に譲り、翌二年、一男二女(弸(みつる)・多勢子・里都子)をともなって江戸に出た。之望ときに三九歳。

 はじめ日本橋新右衛門町に「時習堂」という塾舎を開き門弟をつのって教学にあたったが、この頃から荒陽先生と称された。次いで寛政十一年荒陽四八歳のとき、時習堂の門人榊原釆女の紹介で、釆女の本家越後高田城主榊原遠江守政令のもとに出入りが許され、釆女から築地の居宅を賜わったが、正式には禄米は与えられなかったようである。こうして荒陽は榊原家の教学に参画していたが、文化九年(一八一二)榊原家と疎遠の間柄となり、家を山本喜兵治の屋敷地に移し、同時に儒学から国学に転向した。

 これは娘の多勢子が国学者村田春海(はるみ)の養子となり、春海や橘千蔭それに平田篤胤などの交友関係による影響ともみられている。そして文化十一年には、「榊原大輔殿家中渡辺玄録之望六十三歳」と「気吹舎(篤胤雅号)門人帳」にあるとおり、六三歳の荒陽は当時三九歳の篤胤の門人になっている。なお荒陽の自伝では、学ぶものの何もない気吹舎には、弟子として入門したのではなく顧問として名を貸したに過ぎないといいながらも、ますます神道的国学者の方向に進んでいった。

 こうして文化十三年には、平田国学の基礎が確立される基となったといわれる篤胤の利根川通り鹿島・香取の伝道旅行に随行、「かく島日記」の歌集などを残していた。またその子源太左衛門弸も、文化十三年三五歳のとき篤胤の門人に名をつらねている。その後荒陽は金銭上のもつれから篤胤と絶交したが、その後は賀茂真淵の門人と称してなお国学に精進した。やがて齢八七歳の長寿をまっとうして、天保九年(一八三八)二月に没し、本所牛島の長命寺に葬られた。

 この間荒陽は四二種にわたる書を著している。このうち半数は漢文の儒学書、半数は国学神道の随筆で、出版されたのは六種ほどといわれるが、それらの原本は現在ほとんど不明である。また荒陽は俳諧・狂歌・和歌などもよくたしなみ、〝妹とわれ うえし撫子花はさけど ひとりし見れば おもひかねつも〟、〝われもはや うきねの花の浮ぬなは うきくさながら 根はたえすけれ〟などの歌を残しているが、これらには希望挫折の心情がこめられているようである。

 また荒陽のいやいとこ(弥従兄弟)にあたる浅草福富町二丁目池田屋市兵衛こと稲垣成斎宗輔(瓦曾根中村家からの養子)が、天保七年の飢饉のとき、浅草猿屋町会所御貸付金を下ろして窮民を救った旨の碑を瓦曾根観音堂堂内に建てたが、その碑文と歌は荒陽の書になるものである。この歌は〝こがねよりしろがねよりもなさけある ひとこそは世のたからなりけり〟とある。なお之望は荒陽のほか〓〈左側に瓦・右側に長(𤭖の右側が長)〉玉斎・能曾丸・時翌翁・瓢の屋・花朝子・七福翁などの雅号を用いていた。(佐藤久夫氏の教示を参考とした)

御貸付金の碑(瓦曾根観音堂)