村田多勢子と渡辺弸(みつる)

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 女流歌人としてまた国学者として著名な村田多勢子は、恩間村名主渡辺源太左衛門之望(荒陽)の次女として安永八年(一七七九)に生まれた。幼年から母の生家粕壁宿の名主関根福宜について尊円流の書道を学んだが、一時関根家に乞われて養女になったこともあった。

 その後寛政元年(一七八九)母の登恵が三五歳で没したとき、父之望はその長子太珉に家を譲り、翌三年長女の銀を残し、多勢子とその妹里都子それに次子の弸(みつる)をともなって江戸に移り住んだ。多勢子一二歳のときである。江戸に出た多勢子は一橋藩の家臣信夫道別(しのぶみちあき)に師事して大師流の書道ならびに国学や和歌を学んだが、その才媛を見込まれ、道別の仲介で村田平四郎春海(はるみ)の養女に迎えられた。

 養父の村田春海は江戸小舟町の干鰯問屋の長子で延享三年(一七四六)の生まれ、この家は当時江戸十八大通とうたわれた豪商であったが、元文三年(一七三八)江戸にのぼった国学者加茂真淵の門下に加わった父とともに、学問に熱中し、家産を傾けたといわれる。ともかく春海は真淵の門下生では加藤(橘)千蔭と並び称された秀才で、独立後の春海の門下生からは清水浜臣や小山田与清などすぐれた学者がでている。

 さて春海の養女になった多勢子は、歌道や国学に一層の精進を重ねて父を助けるとともに、しばしば大名家などの奥に招かれて歌道や古典の文学を進講したが、当時〝都下に一人の女あり〟と称されるほどその活躍ぶりは目ざましかったようである。しかし多勢子はなぜか生涯独身を通し、その後嗣には斎藤与右衛門の子春路を養子として迎えた。文政八年(一八一一)春海が没した後は、村田国学の跡を継いで多くの門弟の育成にあたったが、天保八年(一八三七)五九歳の、家塾を春路に譲って隠居した。

 同時に多勢子は髪をおろして芳樹尼と称し歌を友として余生を送ったが、弘化四年(一八四七)十一月江戸八丁堀の自宅で六八歳の生涯を終えた。葬地は春海の菩提寺深川の本誓寺である。なお多勢子の著書やその他の資料の一部は現在天理大学図書館に蔵されている。また多勢子の妹里都子も若くして谷熊山に書道を、のち青蓮院流の書道や和歌を学び才媛の誉が高かった。成長後家を離れ有馬氏の夫人や松平大和守の夫人に仕え、その間芸州侯や米沢侯の奥にも招かれて歌道の進講に勤めていたが、里都子もまた生涯独身を通したようである。

 一方多勢子の弟弸は天明二年(一七八二)四月の生まれ、はじめ駒之助と称した。寛政二年九歳のとき父之望とともに江戸に移ったが、若くして書道を谷熊山に、槍術を岩槻大岡氏の家臣松田秀晴に学び、調馬にも熟練した。ことに細井忠雄に師事して真野流甲冑の製作技術を学んでこれを習得していた。文政五年(一八二一)弸二七歳のとき家を離れ、江戸八丁堀亀島町に槍術と甲冑製作の指南道場を開設した。その門人には榊原家臣久代弥五郎や幕臣菱田判兵衛、江坂弥六郎、三村市蔵などが集まったという。

 その後文政四年(一八二一)父が出入りを許されていた越後高田城主榊原家に招かれて仕官を果たし五人扶持を与えられた。次いで翌八月には一〇人扶持に加増、一〇人の徒士がこれに付属させられた。弸は家中にあっては種田流槍術の指南にあたったが、また真野流古実の甲冑製作にも励んだ。この弸の製作した甲冑は主君榊原式部大輔に献上されたこともあったという。この棚も長命を保ち安政六年(一八五九)四月年七八で没している。この弸の妻は榊原の家臣村上太助の娘であるが、その葬地や他のくわしい事歴は今のところ不明である。

 なお荒陽をはじめ登恵、銀、多世子、弸、里都子の荒陽一家の一石供養墓石が、その故郷恩間不動堂の村田家墓所に建てられている。(佐藤久夫氏の書を参考とした)

村田春海の書(恩間村田家蔵)