中村有道軒正敏

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 神道無念流の剣術の達人中村有道軒正敏は、通称万五郎と称し、天明四年(一七八四)十一月、武州埼玉郡東方村(現越谷市大成町)の旧家中村家の生まれである。中村家は、平安末期から鎌倉期にかけて活躍した武士の集団、武蔵七党のうち野与党の一人大相模次郎能高の系譜を継いた桓武平氏の末流といわれる。この大相模氏は「武蔵七党系図」では、岩槻渋江の系譜を引く箕輪太郎(みのわたろう)(現岩槻市)の子で、能高の子には二郎兵衛尉能忠が載せられているが、系譜はここで切れている。もっとも、「千葉大系図」では大畑能高となっているが、これが大相模氏であろう。

 ちなみに「千葉大系図」によると、大相模能高の兄が箕輪小太郎であり、その子は箕輪弥太郎となっているが、その次男に古志賀谷(越谷)次郎為基がいる。この為基が越谷に住し、古志賀谷姓を名乗ったものであろう。その子は古志賀谷四郎為重といい、その子に太郎秋近、二郎信秋、四郎行勝の三人の名が載せられているが、系図はここで切れている。おそらく、当時古志賀谷氏は越谷郷、大相模氏は大相模郷の領主的な土豪層であったとみられるが、このうち大相模氏はその家系を連綿として伝えたきわめて珍しい家といえる。さらに江戸時代は東方村の名主層として有力な地位を占めていたが、その姓は大相模氏から中村姓に改められた。その時期は、麦塚「中村家系図」により元禄年間(一六八八~一七〇四)麦塚(現越谷市川柳町)の旧家中村家から七郎右衛門重正を養子に迎えたときからとみられる。

 さて天明四年(一七八四)中村家の嫡子として生まれた万五郎正敏は、武士の系譜を引く家の子にふさわしく、幼年から剣術を好み、武州埼玉郡清久村(現久喜市)の戸ヶ崎知道軒暉芳、ならびにその子有道軒胤芳に神道無念流の剣術を学んだ。この神道無念流は野州出身の福井兵右衛嘉平の開祖になるもので、戸ヶ崎知道軒がこの流派の後継者となり、清久村の自邸と江戸麹町二番町に道場を設け、子弟の養成にあたっていた。万五郎が剣術を学んだのは清久村の道場であったが、一八歳のとき初伝を免許されている。

 初伝を許された万五郎は、当時の慣例により、いわゆる武者修行のため諸国を遍歴し、著名な剣士と剣を交えたが、一度も負けたことはなかったという。その後さらに修行を重ね、極秘の印可を授かると故郷東方村に戻って道場を開いたが、万五郎の名声を慕い道場に集まる子弟は門前市をなしたとある。

 文化十五年(一八一八)二月、万五郎の師戸ヶ崎知道軒は病のため四五歳で没したが、その死に臨み、万五郎を枕元に呼んで有道軒の号を授けるとともに、一二歳の戸ヶ崎熊太郎芳栄を助け道場の経営にあたることを遺言した。時に万五郎三五歳のときである。こうして万五郎は有道軒を名乗り、戸ヶ崎熊太郎が知道軒を称し芳栄が一人前の剣士になるまで、清久村の戸ヶ崎道場と東方村の中村道場を兼帯で経営したとみられるが、この万五郎の門弟は延一〇〇〇人、免許皆伝をえた者は数十名に及ぶといわれる。

 ちなみに、万五郎の高弟には田代安兵衛・関根伊十郎・津田又蔵・神田要蔵・津田政次郎.逸見熊次郎・会田市太郎・千代田兼松・関根与茂右衛門・高島五兵衛・蓮見岩松が門幹として名をつらねているが、なかでも逸見熊次郎こと藤塚村(現春日部市)の逸見思道軒福演がことに著名な剣士である。なお『皇国武術英名録』によると、明治初期以前の武術家として越谷周辺では三一名を数え、埼玉郡中では群を抜いているが、このうち神道無念流は二〇名に及んでいる。この神道無念流の盛況ぶりは、中村有道軒の影響がいかに強かったかを示すものといえよう。

 その後万五郎は道場をその子中村有道軒正廸(まさふみ)に譲ったが、万延元年(一八六〇)三月、七七歳で没した。これを惜しんだ門弟一同はその年の夏、大相模大聖寺境内に万五郎の石碑を建てたが、その碑文と詩は儒学者で著名な大槻磐渓の詩文になるものである。

大聖寺境内の中村有道軒の碑