長脇差(ながわきざし)物語

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 自給自足経済を原則とした農村にも、江戸時代の中ごろから貨幣経済・商品経済が浸透し、それまで生活共同体制で維持されてきた村々の秩序も乱れていった。同時に貨幣を媒介とした殺人・傷害・強盗などの凶悪な犯罪が激増していったが、なかでも賭博の流行がこれに拍車をかけた。

 こうしたなかで農業を嫌い遊び歩くなどで人別帳(戸籍帳)から除かれた無宿者が増大したが、彼等は子分をかかえて一家をかまえ、主に賭博を業として勢力を強めていった。いわゆる俠客客とか貸元とか親分とかいわれる「ばくちうち」の発生である。彼らはしばしば賭博場などの縄張り争いから血の雨を降らし、村々の治安を乱したりした。

 越谷でも大沢町に二瀬川善次という親分がいてしばしば事件を起こしている。すなわち安永四年(一七七五)のこと善次が貸元となって開かれた賭博場で喧嘩が起こり、越ヶ谷天嶽寺前の堤防で大乱闘がくり広げられたが、このとき多数の死傷者を出している。さらに、天明元年(一七八一)善次らが関係した越ヶ谷袋町円蔵院境内の女芝居興行で、些細なことで喧嘩となり、越谷側と大沢側とに分かれての大乱闘で、死傷者を出していた。また寛政二年(一七九〇)三六という貸元が、越ヶ谷二・七の市日に、大沢町うどん屋の裏宅で大賭博を開いていたが、これが発覚して奉行所の手入れをうけた。このときは遠島・追放・手鎖りなど数十人が処分されている。

 ところでやくざの親分は大前田の英五郎や国定忠治に代表されるように上州の貸元がとくに有名である。このうち大前田の英五郎は、現群馬県勢多郡宮城村大前田の百姓田島久五郎の子で寛政五年の生まれ、生長後博徒の仲間に入り一家をかまえたが、国定忠治の兄貴分として上州切っての大親分になった。また国定忠治は現群馬県佐波郡国定村の百姓長岡与五左衛門の子で文化七年(一八一〇)の生まれ、一七歳のとき刃傷事件を起こして勘当されたが、大前田英五郎の紹介で同郡百々村の紋次の子分となり、間もなくその跡目を継いだ。天保四年(一八三三)賭博場の縄張り争いから、当時勢力を誇っていた佐波郡島村の伊三郎を殺害、これより忠治の名は博徒仲間にひろまった。

 その後忠治は天保七年兄弟分の仇討ちのため信州中野の源七を襲ったが、その途中吾妻郡大戸の関所を破ったため、八州廻りの探索をうける身になった。巷談で有名な赤城山への逃亡もこの間のことであろう。こうして諸々逃げ隠れていた忠治は病臥中捕えられ、嘉永三年(一八五〇)十二月大戸の関所で礫の刑に処せられた。時に忠治四〇歳。なお赤城の子守唄で著名な忠治の子分板割の浅太郎は、巷談のうえでは忠治から密告の疑いをかけられた浅太郎の伯父、八州廻りの道案内人中島勘助を殺害し、その子勘太郎を赤城山へ連れていったことになっている。ところが現伊勢崎市上諏訪町の墓地には「天保十三寅年九月八日三室村中島勘助行年四十二歳」ときざまれた勘助の墓石とともに、全く同じ日付けの三室村中島太郎吉とある墓がある。つまり太郎吉とは勘太郎のことで、板割の浅太郎は勘助とともに勘太郎も殺害していたのである。

 その後浅太郎は国定忠治と別れると、やくざの足を洗い信州野沢の時宗金台寺に入寺して剃髪し、〝列成〟と称してひたすら仏道の修業に励んだ。かくて列成は時宗の総本山現藤沢市西富の通称遊行寺のなかの塔頭(たつちゆう)貞松院の第四二世住職を継いだ。

 明治十三年本寺の遊行寺は火災のためほとんど焼失したが、その復興は資金が集まらなかったためはかどらなかった。このとき列成はこれを見るに偲びず、持ち前の仁挾心から東京に出て勧化(嘉捨を求めること)に日夜走りまわった。この列成が集めた浄財は莫大な金額に達したといわれ、明治二十六年遊行寺の再建が見事に成就したが、列成はその年十二月二十日に遷化した。

 遊行寺内真徳寺(旧貞松院)の墓所にある列成の墓には「当院四十二世洞雲院弥阿列成和尚」と刻まれている。行年七四歳であったようであるが、これが板割浅太郎の後年の姿である。

国定忠治の供養墓石(群馬県佐波郡東村国定)