遠山金四郎と合戦場宿一件

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 江戸時代、江戸や大坂(現大阪)の行政一般その他取締りにあたったのが町奉行所、その他の幕府領の町村を管掌したのが勘定奉行所であった。勘定奉行は高三〇〇〇石の格式で、これに満たない家格でも奉行を勤めている間は三〇〇〇石にみあう足高が与えられた。

 巷間名奉行と伝えられている遠山左衛門尉景元が、この勘定奉行に任ぜられたのが天保九年(一八三八)二月、五〇歳のときである。遠山家は代々五〇〇石高の旗本であったが、父景晋も文政二年(一八一九)から一〇年ほど勘定奉行を勤めていた。景元はこの景晋の長男として寛政五年(一七九三)の生まれ、通之丞と称した。ところが父景晋はなぜか翌寛政六年、遠山の一族遠山景好の子景善を景晋の跡継ぎとして養子に迎え、かわって景元を同じく遠山の一族九十郎家に養子として入れた。

 景元はこうして九十郎家で成長後金四郎と称し、妻をめとって四人の子をもうけた。文政七年(一八二四)、実家景晋家の跡継ぎ景善が病没するに及び、翌八年再び景晋家に迎えられた。景元は文政十二年家督を継ぎ、江戸城の御膳番や西丸火消頭などを勤めていたが、先述の通り天保九年勘定奉行に任ぜられた。勘定奉行は二年間という短い期間で江戸町奉行に転じているが、この間に手がけた刑事事件に例幣使道野州(栃木県)合戦場宿吟味一件がある。

 ことの起こりは、日光道中幸手宿の飯盛旅籠屋木村屋市太郎抱え飯盛女(客に接待する女)〝みよ〟(仮名)をめぐる公儀役人のいざこざからである。すなわち公儀御普請役(河川の修復などを担当し、村々を廻村した役人)宇佐美鉄三郎は、かねてから幸手宿のみよと馴染の仲であったが、このみよをまた関東取締出役内藤賢一郎が見染め恋文を手渡した。みよはこの恋文を何気なく宇佐美に見せたところ、宇佐美は何を思ったかこれを取りあげてしまった。みよはこの文を返してくれるよう幾度も頼んだが、返そうとしなかったのでこれを内藤に伝えた。

 内藤は御普請役が関東取締役の悪事の行状を調査しており、その証拠の一つにこれを押収したと思いこみ、逆に御普請役の非分の行状を探索してこれを勘定奉行に訴えでた。関東取締出役とは強盗殺人、無宿者の横行など治安の悪化に対処し、文化二年(一八〇五)に創設された治安取締りの専従警察官で、関東一円を廻村して取締りにあたったので、八州廻りとも称され、泣く子もだまるほど人びとから恐れられていた。

 さて訴えをうけた奉行所は、宇佐美ほか二名の御普請役を召喚して取調べを進めたが、このときの奉行は遠山左衛門尉景元であった。取調べをうけた宇佐美らは逆に八州廻りの非分の数々を申し立てたため、はじめに例幣使道合戦場宿の飯盛旅籠屋福村屋太六が逮捕された。こうして一件は野州・上州・武州などの広範な地域に拡大され、八州廻りの道案内人(八州廻りの手下)をはじめ、八州廻りに取り入って便宜をうけていた村役人や商人・ばくち打ちの親分など芋づる式に逮捕され、それぞれ入牢・手鎖・宿領けなどに処せられた。その処分された者は八〇〇余名にのぼったという。

 このうち公儀役人で処分をうけたのは、関東取締出役堀口泰助・吉田左五郎(吟味中病死)・湯原秀助(同)が遠島、内藤賢一郎・長井勝助などが江戸払、火附盗賊改与力高梨四郎兵衛、同じく同心糸賀敬助・同小川三郎兵衛が追放、このほか小池三郎・太田平助・深戸一郎・畔柳良四郎・堀江与四郎・辻和十郎などがそれぞれ追放や押込、御暇などの罰に処せられた。

 こうして公儀役人と密着し、一般庶民を苦しめていた地方の有力者は根こそぎ検挙され、噂の絶えなかった黒い霧は遠山景元の吟味によって一掃された。現在に続く遠山の人気もこのあたりにあったのであろう。その後景元は天保十一年三月江戸北町奉行に転じたがときに五二歳、天保十四年老中水野忠邦の失脚(御役御免)にともない大目付に転じたが、弘化二年(一八四五)再び江戸南町奉行に任ぜられ、嘉永五年(一八五二)まで町奉行を勤めた。安政二年(一八五五)二月六三歳で没し本郷丸山本妙寺に葬られた。

巣鴨本妙寺遠山金四郎の墓