妻女刃傷一件

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 現在、家庭内とくに夫婦間の内紛で簡単に協議離婚にふみきる人が多いといわれるが、なかにはその過程で争論となり刃傷事件を起こすことは新聞紙上からもしばしば見うけられる。しかし江戸時代は女は一度嫁(か)したら夫がどうであろうとも、再び実家のしきいをまたいではいけないという格言にみられる通り、忍従を強いられる夫唱婦随が原則で、一般的には女の立場はきわめて弱いものであったといわれている。

 でも武士階級はともかく、一般の農家や商家の女性はなにかあると、現在のように嫁(とつ)ぎ先の家を出て帰ってこないというような婚家への抵抗を示すことが決して少なくなかった。こうしたなかで天保十一年(一八四〇)一月、実家に戻っていた妻が、実家を訪れた夫に傷を負わせられるという事件が発生した。

 被害者は武州埼玉郡鹿室村(現岩槻市)名主音次郎の娘やすで、加害者は同郡粕壁宿(現春日部市)年寄利左衛門の忰乙次郎である。やすは、三年以前の天保七年六月粕壁宿の乙次郎のもとに嫁したが、同九年十月女子を出生、同十一月「孫だき祝」というこの地域の慣わしで、女児をつれて鹿室村の実家を訪れた。ところがやすは一年にわたり病気を理由に実家に逗留して、乙次郎のもとへ帰ろうとはしなかった。

 乙次郎の親利左衛門は、このやすの行為に立腹していたが、天保十年十月知人である粕壁宿の久蔵がやすを連れ戻す仲介役を申し入れた。利左衛門は承諾し、その条件として今後このような不始末をしない旨の証文を差入れるよう要求させた。これに対しやすの実家方ではそのような書き付を出すわけにはいかないと断り、交渉に応じなかった。

 こうしたなかで双方譲り合わないまま年が明けた天保十一年一月、年礼として乙次郎が音次郎方を訪れた。音次郎はこのとき留守で、やすとその母が乙次郎に応待したが、母が台所に立ったすきに二人差し向かいの話し合いになった。乙次郎はやすに対しこの春にはどうしても家に帰ってほしいと説得にあたったが、やすはすでに仲介者久蔵などに話していたことがらがはっきりしない以上、戻るわけにはいかないとこれをつっぱねた。これは乙次郎の不身持一件をさしたようである。これに対し乙次郎は逆上し、やすを打擲(ちようちよく)するとともに突然持ち合わせた小刀でやすの顔を切りつけた。騒ぎを聞きつけてかけつけた人びとは早速乙次郎を取り押え荒縄で縛ったうえ支配役所にこれを訴えでた。

 訴えをうけた代官関保右衛門は手代を検分役として出役させ、鹿室村の地頭堀鉄太郎の家来立会のもとで検分をすませ、やすと乙次郎を粕壁宿にお預けとした。このときの医師の容態書によると、やすの疵は左あごで長さ三寸の切疵、麻糸で四針縫い合わせた。熱が多少あり、疵所は今のところ濃をもっていて口は十分には開かないが、食事はとっている、と記されている。予期しなかった刃傷事件に驚いた利左衛門は、奉行所の取調べを恐れこれを示談にするため取扱人を立てて音次郎方に掛け合った。その結果、

 一乙次郎妻やすは疵所平癒ののち離縁させること

 一やすの療養手当は利左衛門方で負担すること

 一乙次郎とやすの間の女子は表慈恩寺村名主東馬方へ養女に出すこと

というものでやすの自由が確保されたわけである。

 こうして双方契約書に署名したうえ、やすの疵所はおいおい平癒し、農業渡世に差障りない旨をしたためた、吟味取り下げ願いを関保右衛門役所に提出した。つまり示談による不起訴願いである。しかし一件は刃傷という刑事にかかわるものであったので、同年二月関保右衛門役所から乙次郎に取調べの御差紙(出頭命令書)が届いた。その裁許(判決)の結果は不明ながら、おそらく科料(罰金)などの軽い罰ですんだとみられる。

 このような夫唱婦随の江戸時代にあっても、新しい人生を求め、あくまでも夫や嫁ぎ先の家に抵抗を示す強い女性もいなくはなかったのである。

昭和初期の粕壁駅前通り