殺害された子守りの仇討

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 自給自足経済を原則とした農村にも、生産力の向上にともない、貨幣経済が侵透していったが、同時に強盗殺人など貨幣を媒介とした凶悪な犯罪が平和な農村にも増大していった。文政五年(一八二二)十月のある夜更け、旗本鈴木市左衛門知行所武州葛飾郡下川崎村(現幸手町)の源之丞という富裕な農民の屋敷に強盗が押し入り、家族や奉公人一二人が殺害され、大金が奪いとられるという事件が発生した。

 このとき四歳になる「ゆき」(仮名)の子守りに雇われていた一二歳になる「はつ」(仮名)が、乱暴を働いている盗賊のすきをみて屋敷の外に逃げだしたが、「ゆき」の安否が気ずかわれ、再び戻って「ゆきゆき」と小声で幼児の名を呼び「ゆき」を連れだそうとはかった。盗賊の一人はこれを聞きつけ、廊下でうずくまっていた「なつ」を脇差で九か所ほど斬りつけた。「なつ」は一度は悶絶したが、息を吹きかえし雪隠にかくれた。やがて一家を斬殺し、大金を奪って引きあげたころ「なつ」は残る力をふりしぼって座敷にはい出たが、そのまま力つきて倒れた。

 夜が明けたころ「なつ」の母が娘の冬着を持って源之丞宅を訪ずれたが、この惨状をみて驚き「なつ」の名を呼び続けた。すると虫の息の「なつ」が母の声を聞きつけ「かかさま、かかさま」とかすかに叫んだ。母はこの声をたよりに座敷にあがり、全身血だらけの娘をみつけてだきよせ、だれの仕業かを訊ねた「なつ」はこれにこたえ「旦那が旦那が」と言って水を所望した。母が水を与えたところ娘は母の胸の中にうずくまるようにして息を引きとった。

 母の知らせではじめて事件を知った村内は大騒ぎとなり、江戸から関東取締出役をはじめ大勢の役人が出張し、「なつ」の言い残していった「旦那」を手がかりに犯人の探索にあたった。しかし当時村内で旦那と呼ばれたのは名主とこの家の主人だけであったため、この唯一の手がかりも壁に突きあたったが、捕手方では犯人は「なつ」の顔見知りの者と確信し、数人の密偵が川崎村に逗留して村内の様子をうかがうことにした。

 時日が経過し村内がようやく落ちつきを取り戻したころ、村内の桶屋(仮名)が金八〇両の金子を名主宅に持参し、土地を求めたいので世話をたのむと願いでた。名主はこの金子の出所を問いただしたところ、桶屋は先ごろ江戸感応寺の富くじに当った金だと答えた。これを伝え聞いた「なつ」の母は、村内で旦那と呼ばれた者は、名主とこの家の主人のほか奉公人の口入れを兼業としていた桶屋も、桶屋の口ききで奉公に入った者たちが旦那と呼んでいたのを思い出した。

 こうして母の口述から俄かに桶屋の身辺に探索の手がのび、同時に江戸感応寺富くじの当り番号などが調べられたが、桶屋の申し立ては偽りであったのが知れ、桶屋父子は強盗殺人の容疑で逮捕された。奉行所で吟味の結果桶屋父子は一件の犯行を白状し、一味の者は自分らの外に無宿者の四人であることを申し述べた。二名の者はすでに姿をくらましていたが、その逮捕は時間の問題であったという。殺害された子守りの遺言から犯人が逮捕されたという、いとも哀れな子守りの仇討本懐話である。

 この話は加藤尾曳庵という江戸の町医者が文化元年(一八〇四)から文政八年(一八二五)にかけて手に入れた諸記録や、見たり聞いたりしたことを書き留めた『我衣』という著書のなかに収められている一話である。

下川崎の農家