幸手宿打ちこわし騒動

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 江戸時代冷害や洪水などで農作物が凶作のときは、多くの人々がその日の食料に窮し餓死することが珍しくなかった。人びとはこれを飢饉と呼んで恐れた。記録の上からの近い例では、天明三年(一七八三)・天保四年(一八三三)・同七年が冷たい夏で、特に東北地方は大飢饉となり、数万の餓死者が出たといわれる。当時は外国との自由な貿易が開かれてなく、国内だけで食料を調達する自給自足の経済が原則であったからである。

 このうち天保四年の冷害は全国的な現象で米価は急激に上昇した。これを越ヶ谷市(いち)相場でみると、天保四年の夏まで平均金一両につき八斗七、八升であった米価は、凶作が見込まれた八月二日には五斗近くまで急騰した。この米価の値上りでもっとも困ったのは、宿場や城下町などの都市部で小商ないや職人稼ぎ、あるいは駄賃稼ぎで生計を立てている地借り、店借りと称され無高と呼ばれた無産者層の人びとであった。

 このため日光道中幸手宿では九月二十八日の夜、生活に窮した困民による打ちこわし暴動が発生し、幸手宿と上高野の富豪二三軒が襲われた。この間の経過をみると次の通りである。

 幸手宿は越ヶ谷宿と同じく古くから二・七の六斎市がたてられ、この日の市場取引で穀物の相場がたてられていた。ところが天保四年の夏は冷害で凶作が見込まれたため、米価は九月十七日の市相場では金一両につき五斗余という急騰をみせた。このため賃金などで生計を立てている地借り、店借り層は生活に困り米価の引下げを穀屋に掛け合ったが、米穀安売りに対する穀屋仲間一同の評議は容易に決着を見せなかった。

 こうしたなかで九月十九日の夜、何者とも知れず宿場の傍示杭に「来る二十二日早朝荒宿正福寺門前に御寄り下さるべく候」との張札、別に穀屋の門口に来る二十二日昼九つ時(正午)打入りに参るものなり」との張札が張られた。このため不測の事態を予想した幸手宿では、二十二日の市立を中止したが、米価はなおも高騰する気配をみせ無高層の不隠な状勢はさらに募(つの)った。

 これに対し穀屋一同は宿役人をまじえ久喜町蔦屋伝右衛門方に参会してその対策を協議した。このなかで穀屋のうちには米を拠出し安売りに備えてもよいが、米価はおそらく来春にはまだまだ高騰するであろう。ことに来年の端境期(はざかいき)まで安売りを続ける手当米はとうてい自分らでは負担しきれないと主張するものもあり、意見はいっこうにまとまらなかった。これには幸手宿の有力者名主・問屋中村右馬之助が所用のため江戸に出ていて留守であったことが決断をみなかった理由であったようである。

 こうして困窮者に対する何の対策もたてられないまま、二十七日の市日には人為的に二升ほどの米価引下げが行われたが、米の安売りに応じない宿役人や穀屋の態度に業をにやした無高層の主だった者が、真言宗正福寺境内に集合するよう廻文で呼びかけた。集合した人びとのうちから代表者が選ばれ、穀屋と最後の交渉が行われていたが、このとき所々の寺院から早鐘が撞かれ、これを合図に五、六〇〇人の群衆が各寺院に集まった。

 こうして同夜の十二時から朝の六時ごろまでに幸手宿荒宿の長島屋善六方をはじめ右馬之助町庄兵衛方など一九軒、上高野村弥右衛門方ほか三軒、都合二三軒の家が打ちこわしにあった。

 訴えをうけた幕府役人は検使として幸手宿に出張し、打ちこわしに参加した主だった者三八人を召し捕えて奉行所に引き渡した。奉行所では一件吟味のうえ、同年十二月幸手宿店借り清吉ほか一人を所払い、勘右衛門ほか三名を過料銭、忠兵衛ほか一四三人を急度お叱り、騒ぎを起こさせた責任者として幸手宿と上高野村の名主年寄はお叱りという裁許(判決)が申し渡された。

 このような打ちこわしは天保七年の凶作年にも久喜町や岩槻町などで発生しているが、越ヶ谷宿では騒ぎになる前に交渉が妥結し、施米や施金が実施されたため無事であった。

幸手正福寺の鐘楼