吉川商人と柿ノ木領の出入り一件

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 江戸時代越谷地域で産出される米穀は武州越ヶ谷米と称され、江戸市場の品質格付けでも良質の米穀として上位にランクされていた。はじめはほとんどの産米が年貢米として、各領主の米倉が建ちならぶ江戸蔵前に廻送されたが、生産力の向上によって余剰米が増産されるに及びその余剰米は商品として盛んに江戸その他へ出荷された。

 この出荷にあたっては、ほとんど舟運が利用されたが、越谷地域では元荒川通り瓦曾根河岸や古利根川通り増林河岸、綾瀬川通り戸塚河岸、あるいは江戸川通り金杉河岸などから江戸地廻り米穀問屋に積出しされた。このうち忍藩柿ノ木領(現大成町・東町・川柳町・草加市など)地域では、平沼(吉川町)河岸を利用し、その取引も吉川市場の商圏に属して、緊密な関係を維持してきた。吉川市場は近距離の地ですべてが便利であったからである。

 こうしたなかで吉川の米穀商人は仲間組合をつくり、高瀬舟など一〇艘の運送荷船を差配して市場や河岸場をとりしきっていた。このため吉川河岸からは個々の売主が船をチャーターすることができなかったので、どうしても吉川市場で米穀商人と取引きするほかなく、自然吉川市場の米相場は他の市場にくらべ、きわめて低値でおさえられていたという。

 しかも商人と結託した吉川の舟主も、取引圏内の村々がもし運送荷を他の河岸場に委託したときは報復措置をとることもあった。文政年間(一八一八~三〇)のこと、忍藩柿ノ木領八か村は年貢米五四〇〇俵の津出しにあたり、財政難を理由に、前例を破って吉川の船主と瓦曾根河岸の船主との間で競争入札を行わせたが、瓦曾根の船主が安値で落札した。つまりこの年貢米の輸送は瓦曾根河岸の船問屋が請負うことになったのである。吉川(平沼)河岸の船主はこれを遺恨に思い、柿ノ木領村々からの運送荷に対しことごとく難題を申しかけ、村々に大きな迷惑をかけた。このため柿ノ木領村々では一同申し合わせ、特定の船主を指定して便宜をはかってもらう措置を講じたが船主仲間の抵抗にあったため、柿ノ木領の運送荷は途絶状態に置かれた。

 またこのころ四条村(現東町)の名主丘兵衛は金子入用にさし迫り、掛買の吉川町商人をきらって、越ヶ谷新町の米穀商松本屋利兵衛と石塚屋喜兵衛に作徳米(小作米)一〇〇俵を現金で売却しようとした。ところがこれを知った吉川の商人半次郎と伝七は丘兵衛方を訪れ、遠場の越ヶ谷町米穀商人に米穀を売られては、吉川商人の商売にさし障ると談じこんできた。丘兵衛方では自分の米を何処に売ろうと他所から文句を言われる筋合はないと反論したが、越ヶ谷町の松本屋と石塚屋は吉川の商人に遠慮し、たっての頼みでようやく米五五俵を現金で買いとった。このとき吉川町の伝七と半次郎は越ヶ谷町の商人に、今後古くからの取引先である吉川町近郷へ米の買出しはしないよう強く申し入れている。

 その後半次郎らは丘兵衛方を訪れ、正月の初荷とするので米五〇俵を購入したいと申し入れたが、丘兵衛方では前からの掛買分を返金しない以上売却できないと主張した。このときは掛買分の残金を返金したので、代金の支払いは七月末までの約束で米四五俵を売却したが、のち若干の買掛分を納めてはそのつど米を仕入れていったので、丘兵衛方での売掛金は多額なものになった。しかし半次郎らはこの買掛金を度重なる催促にもいっこうその返済に応じようとはしなかった。

 つまり半次郎らは返済金に困ったわけでなく、以前丘兵衛が越ヶ谷町の商人に米を売ったのを遺恨とし、計画的に米を掛買して困らせようとはかったのである。このため丘兵衛方では一件の始末を書き記し半次郎らを相手どって奉行所に訴えでたが、その結果は不明である。近ごろ土木業者などの談合入札という慣例が明るみに出て問題になっているが、江戸時代にも、縄張りともいえる業者の特権が不文律化され、多くの人びとが迷惑をこうむっていたのである。

吉川平沼河岸の廃船