長州征伐と御用金の賦課

126~128/236ページ

原本の該当ページを見る

 江戸時代幕府や諸藩が財政の不足を補うため、町人や農民から金銀の上納を命じることがあった。これを御用金と称した。御用金は本来利子付きの償還を原則とした借り上げ金であったが、幕末にはほとんど償還されない献金同様なものであった。安政六年(一八五九)十月江戸城本丸が焼失したが、幕府は本丸再建に際し償還されない御用金を幕府領村々に課していた。このとき増林村の榎本熊蔵・関根平蔵・今井幸助が金二〇〇両を上納し、その身一代苗字御免の褒賞をうけていた。

 このときはすでに幕府の財政は破綻し、多額な御用金上納者には苗字帯刀を許すなどの褒賞政策をとって資金を集めていたのである。ちなみにこの御用金上納者への褒賞は、金一〇〇〇両以上がその身一代苗字帯刀御免二人扶持(武士に準ずる扱い)、四〇〇両以上が孫の代まで苗字御免、二〇〇両以上がその身一代苗字御免、二〇〇両以下が金一〇両につき銀一枚の褒賞金となっていた。

 その後元治元年(一八六四)七月、長州藩の尊王撰夷過激派による京都侵攻が強行されたが失敗に帰した。いわゆる禁門の変といわれる京都御所蛤御門の戦である。これに対し幕府は長州藩の討伐を諸藩に命じた。第一次長州征伐である。このときは孤立した長州藩は恭順の意を示し責任者を切腹させるなどの措置をとって謝罪したため征討は中止された。しかし長州藩はその後も反幕派による軍政改革を押し進めるなど、幕府の意向を無視したため、翌慶応元年(一八六五)五月幕府は再び長州藩討伐を諸藩に命じた。第二次長州征伐である。

 このとき幕府は軍資金の調達のため、江戸や大坂の豪商をはじめその他幕府領の豪農に多額な御用金を課した。このうち大坂の豪商からは二五二万余両を強制的に献納させたといわれる。このほか幕府領と旗本領の村々にも御用金を割当てたが、連年の凶作で疲弊していた村々では、割当てどうり完納した村は少なかったようである。例えば越谷地域の大里村では金二七両の割当てに対し二四両、小林村(現東越谷)では五四両に対し四八両、長島村では二七両に対し二四両といった具合であった。また幕府は村内の身上裕福な富農層に対しては名指しで御用金を割当てたが、このうち金二〇〇両を上納したのは、増林村の榎本熊蔵・関根平蔵・今井幸助、七左衛門村野口八郎左衛門、四町野村大野伊右衛門、西方村の秋山弥之吉、越ヶ谷宿の伊勢屋太兵衛(有滝)でそれぞれその身一代苗字御免の褒賞をうけた。ただし増林村の榎本熊蔵以下三名は江戸城本丸普請の上納金が加算され孫までの苗字御免が許されていた。

 このほか多額な上納金に応じた人には、金八〇両を上納した西方村斎藤孫兵衛、金七〇両の四町野村新井吉右衛門、同じく西方村吉太郎(秋山)、六五両の越ヶ谷新町永楽屋幸左衛門(田中)、六〇両の同宿新町大野新左衛門、同じく松本利兵衛、五〇両の四町野村織右衛門(金子)、西方村の茂吉(斎藤カ)、四五両の越ヶ谷中町塗師屋市右衛門(小泉)、同本町三鷹屋嘉兵衛(内藤)、四〇両の大沢町太郎兵衛(江沢)、三〇両の大沢町権右衛門(福井)などの名がみられる。

 こうして多額な軍資金を調達した幕府は翌慶応二年六月長州征伐に進発したが、長州藩兵の抵抗は強く、かつ同年八月将軍家茂の死去により長州征伐は中止された。ここに幕府の権威は全く地に墜(お)ち、同時に薩長を中心とした討幕軍の侵攻をうけて幕府は崩壊、明治維新を迎えることになったのである。

増林の榎本家