神仏分離令と大沢町光明院

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 慶応四年(一八六八)四月、将軍徳川慶喜追討のため江戸に入った官軍総督府は、いち早く神仏分離の法令を広く村々に達した。すなわち権現や八幡菩薩あるいは午頭天王の類など仏像をもって神体とした神社の神を皇神に改めさせるとともに、本地(仏が諸神の姿をかりて現われること)と称し仏像を社前に掛けたり鰐口や梵鐘その他仏具を取り除くよう命じたのである。

 このため古くから別当として神社の神主を兼帯した僧侶は神社と切り離されることになったが、神社を優先させた維新政府の政策に迎合し、復飾(俗人にかえること)して神官に転向する僧侶も少なくなかった。ことに当時は廃仏毀釈と称し、寺院や仏像を破壊するなど仏教廃止運動が各地におこっていたので、身の保全のため復飾する僧もあったのである。

 こうしたなかで大沢町の真言宗光明院の住職は大沢町の鎮守香取明神社の神主を兼帯していたが、明治元年九月(八月より慶応を明治と改元)滅罪(葬式)檀家は一切ないとの旨を申し立て、復飾して名を遠藤主計と改め光明院を廃寺とした。しかしこのことは檀家ならびに大沢町の役人に一言も相談がなかったため人びとは住職が復飾したことを全く知らなかった。ところが翌明治二年四月光明院檀家のうち死亡者が出たので葬式の件を院主に申し入れたところ、遠藤主計は神主進退の地所に不浄な遺骸を持ちこむことはならないとこれを断ったので、人びとははじめて光明院が廃寺となっていたことを知って驚いた。また遠藤主計は同月の宗門人別改め(戸籍調べ)の際、差支えが生じた光明院檀家一九人の者に隣村大房村浄光寺に宗判を願うよう浄光寺宛ての頼一札に判を押させた。つまり浄光寺へ檀家替えするよう迫ったのである。

 これに対し光明院の本檀家二二軒、墓檀家四七軒、計六九軒の檀家は、光明院境内の除地(免税地)八反二七歩、そのほか檀家の祖先が先祖の菩提を営む資金として寄進した田畑二町一反余歩の地所を、理不尽に神主遠藤主計が進退していることに不満を示し、惣代をもって掛け合った。このとき遠藤主計は光明院の本寺末田村(現岩槻市)金剛院に金子を差し出して末寺を離れ、そのうえで墓所を他の寺院に移すこと、もしそのまま墓所を差置くときは地代金を取り立てるであろうと申し渡した。

 この返答に当惑した檀家は本寺金剛院にその旨を訴えたが、金剛院の掛け合いも埓(らち)があかなかったため、大沢町役人に申し出たところ、役人は主計の言う通り取計らったらよいだろうとの返事だった。

 このため檀家一同は一件を小菅県役所に伺いを立てると町役人に届けたところ、上千葉村(現葛飾区)の普賢寺が扱いに立ち入り主計と交渉に入った。しかし遠藤主計は光明院を出て組頭市左衛門方に移ったものの、境内地の取扱いが難行したため、なんとか光明院境内はそのまま残してもらうよう小菅県役所に嘆願するほかないであろうと言って手を引いた。

 一同は遠藤主計が立ち退いた光明院の堂舎を改めたところ、堂舎の諸道具はもちろん障子、畳、建具とも残らず取払われていて全くの空家同然になっていた。すでにこのとき遠藤主計は形勢の不利なのを知りその場から逃亡をはかったが、召捕えられ一件は落着した。

 維新政府の発した神仏分離令は、さまざまな混乱を引き起こしたが、政府の方針が不明であったため、とくに仏教寺院の存在はどうなるのだろうと、寺院の関係者はなすすべもなく、恐怖におののいていたのである。

現在の大沢光明院