埼玉県史提要と越谷

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 明治四年十一月廃藩置県の施行により埼玉県が成立した。この埼玉県が設置された四年十一月から同九年までの県治の沿革を日記風に記録したものに埼玉県中属大庭雄次郎編集になる「埼玉県史提要」がある。これには布達など制度上の沿革のほか、県内の主な出来事や善行者表彰などの一端が織りこまれている。このうち越谷及びその周辺にかかわる記事を抜き出してその要旨をみると次の通りである。

 明治五年四月十五日、埼玉郡恩間村名主渡辺嘉忠次は、旧岩槻藩時代から堤防取締役に任ぜられた恩顧に報いるため千間堀通り洪水被害の予防備品として本年から五か年間、毎年空俵六〇〇個、藁二〇〇把を拠出することを請願したが、その奇特を賞され感謝状が授与された。

 明治七年十月二日午前二時、埼玉郡越ヶ谷宿から出火、瓦曾根・四丁野の両村に延焼し焼失家屋三九五戸、焼死者二人の惨事になった。このうち越ヶ谷宿の焼失家屋は三一五戸、土蔵八五か所、物置一〇五か所、焼死者男一人、瓦曾根村の焼失家屋は七九戸、土蔵一か所、物置三二か所、焼死者男一人、四町野村の焼失家屋は一戸、これに対し政府は罹災者に救助米を支給するとともに、有志からの義損金をそれぞれの区戸長に手渡し、罹災者の救助に努めさせた。

 明治八年一月十九日、人力車夫の休泊業を営む瓦曾根村の平林梅次郎ならびに車夫加藤浅次郎ほか一人は、怪しい者を警察に通報しその逮捕に協力したので金二五銭を賜った。これは昨年十二月七日東京大伝馬町油屋の雇人と称する挙動不審な者が平林梅次郎の茶亭で粕壁宿までの人力乗車を頼んできたとき、ひそかにこれを越ヶ谷警察屯所に告げ、車夫二人とともに臨機の処置で捕えることができたというものである。

 同年八月六日、葛飾郡平沼村(吉川町)の徳江忠次郎は自費をもって徳江橋を完成させたが、この架橋費用四〇八九円を償却するため、今後十一年問従来の渡船賃にみあう通行銭を徴収することを申請して認可された。すなわちその渡橋銭は一人につき銭三厘、牛馬は七厘五毛、人力車は九厘、荷車は六厘ということであった。

 明治九年三月四日、越ヶ谷宿関根重次郎ならびに堀沢市兵衛ほか三名は去る一月二十二日の深夜放火による火災を発見、現場に急行して消火にあたり事なきを得たことを賞され、火災の発見者関根重次郎に金五〇銭、消火の協力者堀沢市兵衛ほか三名に各二五銭が下賜された。

 同年三月九日、神明下村(越谷市)高橋佐助は、去年二十七日所用のため大沢町福井権右衛門宅に宿泊したが、翌朝山形県十日町の住民と称する男が室の隅で首をくくっているのをみて驚き、福井家の家人とともにこれを救助し介抱して蘇生させた。この行為が賞され佐助ほか福井家の家人に各二五銭の褒賞金が下賜された。同年四月二十九日、袋山小学校に石盤三〇枚、硝子盤四〇枚この価格一〇円六二銭を寄付した間久里村の吉岡太左衛門、ならびに同校に校旗一式、この価格一二円を寄付した袋山村細沼範十郎に褒賞として木杯一個が授与された。

 同年六月十七日、葛飾郡松伏村の豊島市五郎は古利根川でおぼれている幼児を発見、水中に飛びこんで救いあげたがすでに絶息の状態であった。しかし近所の人に協力を頼み人工呼吸などの介抱につとめ幼児を蘇生させた。これを賞され豊島市五郎は金七五銭の褒賞をうけた。またこの日大沢町松沢亀次郎も水難人の救助で金五〇銭を下賜された。

 以上越谷ならびにその周辺の関係事項の一部を抄出したが、当時の明治政府はとくに善行を褒賞するなどして、国民の信頼を得ることに努めていたことが窺える。

当時の徳江橋(吉川橋)