警察制度と越谷

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 江戸時代は文化二年(一八〇五)から、警察専従官ともいえる関東取締出役が、関東の治安取締りにあったが、この取締出役の下役として民間人から選ばれた「道案内人」と呼ばれた下役が置かれていた。慶応四年(一八六八)三月、徳川幕府が倒れ、関東取締出役と道案内人は廃止されたが、明治二年県の役人の統制のもとに、各寄場組合から「捕丁」とこれを助ける「捕丁助」が、在地の民間人から任命されて治安の取り締りにあたった。

 次いで同四年十一月埼玉県が成立するとともにその管内は二四区の行政区に分けられ、各区ごとに御用取扱所が設けられた。この取扱所のなかに村々を巡回し、治安の取り締りにあたる「捕丁付属」と呼ばれた警察執務者が六人ずつ配置された。この捕亡付属の諸経費は当時組合負担の民費であった。埼玉県第二区の越ヶ谷地域では、このとき、大沢町の島根荘三、田中喜三郎、疋野次右衛門、西方村の山崎常三郎、増林村の今井鮭太郎、袋山村の関根善太郎が捕亡附属に任命されていた。

 次いで同六年四月、御用取扱所に置かれていた警察事務は、新たに設けられた「警察付属屯所」に移管された。このときまでは全国を統轄する警察権は司法省が掌握し、各県に聴訟課を置いて警察事務を担当させたが、検察・裁判・監獄の職掌まで聴訟課が扱っていた。それが明治五年八月各府県に裁判所と検事局が設けられ、裁判と検察の機能が分離させられるとともに、司法省に警保寮が設置され、全国の警察機構は警保寮の所管に組みこまれた。次いで明治七年一月、警保寮は同六年十一月に新設された内務省の管轄に移されたが、同時にそれまでの司法警察は、犯罪の事前予防と国家の治安維持に重点が置かれた行政警察に移行していった。

 続いて同八年三月、行政警察規則が定められたが、このうち捕亡と称された下級警察吏は「ら卒」と改称され、一等から五等の等級がつけられた。次いで同年八月また規則が改正され「ら卒」という名称が「巡査」に改称されたが、このころから在地の民間人によって占められていた巡査が、士族出の者にかわる傾向が増大していった。

 続いて同九年一月、埼玉県では従来呼称されていた警察出張所を警部出張所に、警察付属屯所を巡査屯所と改めた。すなわち越ヶ谷本町大沢橋たもとの第二医務所内に設けられていた草加警察出張所越ヶ谷付属屯所は、このとき越ヶ谷巡査屯所と改められたのである。次いで同十年一月、内務省達によって警部出張所が警察署に、巡査屯所が警察分署と改められるに及び、越ヶ谷分署の独立庁舎が区務所わきに建設された。その建坪は九坪で建築費は一一〇円五九銭五厘であった。この費用は管内大沢町を含む一か宿、三二か村の寄付金と賦課金で調達された。なお当時越ヶ谷分署の巡査は六名であった。

 次いで同十五年六月、数多く設けられていた警察署と分署の整理統合が行われ、管轄区域が拡大された。このとき越ヶ谷分署の管轄領域は越ヶ谷宿をはじめ南埼玉郡で四三か村、北葛飾部で二五か村、中葛飾郡で一か村、計一宿(大沢町を含む)六九か村に拡大され、警察分署の人員構成も警部一名、巡査一七名、雇一名、計一九名に増員された。このため庁舎が狭くなり同年十一月総額二八四円余で増築が施工され、建坪二〇坪(約八〇平方メートル)の庁舎が完成した。その費用はもちろん管内町村の寄付金と賦課金でまかなわれた。

 次いで明治二十六年十一月、それまで草加警察署の管轄になっていた越ヶ谷分署は警察署に昇格、同時に草加警察署が越ヶ谷警察の分署に位置づけられた。しかし同三十五年警察署管轄区轄の改正が行われ、越ヶ谷警察署は岩槻警察署の分署に移された。ちなみに越ヶ谷分署が再び警察署に昇格したのは大正十三年十二月のことであった。

越ヶ谷警察分署