議員選挙と越谷

136~139/236ページ

原本の該当ページを見る

 昭和五十五年六月衆議院の突然の解散により、同月二十二日に衆議院と参議員の選挙が施行された。この両院同日の選挙は議会史上異例なことといわれ、まさに国内は選挙ムードで充満している観があった。ところで、江戸時代は立法・行政・司法・の三権は未分化で、名主または庄屋と称された町村の首長いずれも支配者による任命という形で世襲制を原則とした。しかし時代が下がると〝入札〟と称し、住民の直接選挙で首長を決めることもあった。

 明治維新後西洋の制度を導入した政府は、まず明治十一年府県会規則を制定し県議会を設置したが、このときの議員選挙権は二五歳以上の男子で、直接国税五円以上を納入する住民の直接選挙と規定された。この第一回の議員選挙では市域では大泊村の那倉官三郎と七左衛門村の井出庸造が選出されている。また明治十三年区町村会法が制定されたが、議員の選挙その他は各区町村の規則で定めるとされたため、準備の進んでなかった越谷地域では、町村会議員の選挙は行われなかったようである。

 次いで明治二十二年「大日本帝国憲法」が発布され、法律第三号によって衆議院選挙法が制定された。これによると、議員選挙の有権者は満二五歳以上の男子で国税一五円以上を納める者と定められたため、選挙権者は当時の人口の一パーセントにすぎなかった。同時に住民の直接選挙であった県会議員は、郡会や市会で選挙する間接選挙に改められたが、国民の激しい非難をうけ、明治三十二年直接選挙に戻すとともに、選挙権も国税一〇円以上から三円以上に引下げられた。

 いっぽう市町村議会は明治二十二年の市町村制施行によっていちおう軌道にのせられたが、この選挙権は二五歳以上の男子で国税二円以上を納める者に限られ、しかも選ばれる議員は納税額の多少により、二級あるいは三級に分けられてその定数がきめられたため、いちじるしく不平等な選挙制度になっていた。

 その後衆議院の法律が改正され、選挙権者の条件はいく分緩和されたが、さらに大正デモクラシーと称される民主化運動の結果、大正十四年には治安維持法の制定と引きかえに納税には関係ない普通選挙法が成立した。これにより有権者は、いっきょに総人口の二〇%に達した。同時に県会はじめ市町村会議員選挙も普通選挙法に改められ、等級選挙制も撤廃された。ただし都道府県知事は政府が任命する官吏、市町村長は市町村会議員が選挙する間接選挙という従来の方法は改められなかった。

 この間、政党人として活躍した市域の人びとを示すと、七左衛門の井出庸造、三野宮の尾崎麟之振、増林の今井晃、大沢町の島根荘三、大里の深野恒三郎、大間野の中村悦蔵、越ヶ谷町の大塚善兵衛、同大塚善太郎などである。なかでも南荻島出身の川上参三郎は明治三十五年の第七回衆議院総選挙に、越ヶ谷団体の候補者として選挙戦に臨んだが、惜しくも敗れている。

 また普通選挙法施行後の衆議院選挙には、昭和五年越ヶ谷町から立候補した古島義英が当選したが、昭和十一年の総選挙に同じく越ヶ谷町から立候補した宇治山田市出身の門田新松は落選している。また、県会議員では蒲生の清村善三、出羽の大野伊右衛門、同じく井出門平、川柳の深井哲三郎がそれぞれの期で当選を果たしている。

 やがて昭和二十年日本の敗戦により連合軍による軍制が布かれたが、同年十二月、選挙法が改正され、その選挙権は二〇歳以上に引上げられるとともに、婦人にも参政権が与えられた。こうして全国の有権者は総人口の五〇%に達したが、翌二十一年四月、婦人が参加した初めての衆議院議員選挙が施行された。このとき県東部からの当選者は、幸手町の三ッ林幸三と越ヶ谷町の古島義英であった。

 次いで同年九月、府県市町村制の改正法令が制定され、任命制や間接選挙によった県知事や市町村長も、住民による直接選挙に改められた。同時に、従来知事あるいは市町村長の管理に置かれていた選挙事務は、行政機構から独立した選挙管理委員会に移された。こうして昭和二十二年四月、新選挙法による第一回の総選挙が行われたが、越谷地域を含む埼玉県第四区からは、自由党の古島義英、同じく佐瀬昌三、社会党の馬場秀夫の三名が当選した。

 このように選挙一つをとってみても、さまざまな変遷を経て今日の選挙刷度に改められてきたのである。

昭和10年の選挙しゅく正のポスター